俳 人

箱島阿誰


下総関宿の豪家。通称善兵衛。巴人門、後存義に従う。郢月泉。

 寛保2年(1742年)6月6日、巴人は夜半亭にて病没。

 宝暦2年(1752年)、『反古衾』(雁宕・阿誰編)。『反古衾』には阿誰の子浙江、娘満津、妻曽代の入集。

 宝暦3年(1753年)、存義は境を訪れる。

  二月三日

   首途

つくづくと春の日脚や杖の節

   堺着

  とし頃の望遂て月泉の扉に杖を休め、互の無異
  をうち物がたらふて、

漸春の土に手をつく柳かな
   阿誰

『つえのふし』

 宝暦3年(1753年)、風光は阿誰宅に逗留。

常陸をしまひ結城鴈宕にしはしはあそひ境阿誰舎に逗留久し


 宝暦8年(1758年)、梅田徳雨は出羽三山・山寺・松島に遊ぶ。

句のうへを山の錦や朱買臣
   阿誰


 宝暦10年(1760年)11月3日、徳雨は野木町の野木神社に「千鳥墳」を建立。記念集『千鳥墳』(徳雨編)刊。郢月泉阿誰序。

 宝暦13年(1763年)、『松島游記』(徳雨編)刊。

 明和5年(1768年)10月8日、阿雖は京極中川庵の時雨会に参列。

ぬれに出る子をあふなかる紙衣哉


 明和8年(1771年)、木兎坊風石は奥羽行脚の帰途阿誰の家に逗留している。

   下総の阿誰子になかくとゝめられ
   て、冬着の調度なと心ふかゝりし

袖に置雪も真綿の引わかれ
   同


 明和9年(1772年)5月12日、横田柳几は阿誰を訪れている。『古河のわたり集』

明和9年11月16日、安永に改元。

安永元年(1772年)12月15日、62歳で没。

 安永3年(1774年)、木兎坊風石は象潟行脚の途上阿誰の菩提寺へ行く。

 安永5年(1776年)、阿誰の追善集『その人』(浙江編)刊。存義無一居士序。

阿誰の句

紫のくも手や海苔の杜若

驚かす我も夢也鉢たゝき

『宗祇戻』(風光撰)

葛水に砂糖の塵や捨小舟


初しくれ古ひたる物はかりなり


その松は朧のまゝかゆふしくれ


梅一りん月にもまさる朧月


浙江は阿誰の子。閑鵞。

 安永4年(1775年)、『果報冠者』(閑鵞編)。浙江が初夢に白鵞の遊ぶのを見て閑鵞と改名した記念集。

安永5年(1776年)6月27日、閑鵞は麻疹のため病没。享年45。

神無月のころ、境の閑鵞子、身まかりけるとつたへ聞て、

我袖をたづねて来たり一時雨
   蓼太

『閑鵞一周忌追善集』

安永6年(1777年)6月、『閑鵞一周忌追善集』(文路編)。

文路は閑鵞の息、箱島家四代目忠右衛門徳候。志寧。

閑鵞の句

春の日の下りかけむや藤の花

野は枯て独さめたり松一木


姑の鬼もこもれる十夜かな


文路の句

はつ暦書能きえとに当りけり

   通天橋

水くゝる千々の紅葉や絵具谷


このページのトップに戻る

俳 人に戻る