俳 人

無礙庵五峰
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中島氏。通称佐源太。別号三日坊。

 明和3年(1766年)、48歳の時に松島・象潟を廻り、秋には須磨・天の橋立で句を詠み、故郷に帰る途中で芭蕉の七十二回忌に義仲寺に立ち寄った。

こゝにひたちなる三日房のぬしは、たゝ煙霞の痼疾にその身をわすれ、しはしは風雅のさひしみを得て、やふれ笠を権貴の門にぬかす、菜雑炊のむしろに俳諧のおかしみを味ひて、松しま・象潟の春に遊ひ、須磨・はし立の秋を詠みて、ことし東の故郷へ帰らんとするの道、あは津の寺にまふてける。

芭蕉忌やかれ残りたる硯水

『しぐれ会』(明和3年刊)

 明和5年(1768年)、二六庵竹阿は三日坊に出会っている。

   ○逢三日坊

今日は彼岸の入なれはと、弥谷寺へ詣す。故中・羽客の両士いさなへり。天霧山の麓七曲といふ処にしはらく老足を休め居たるに、丸亀の桃径来れり。翁法師も連たり。今壱人は三日坊といふに、能々見れは、廿年の昔、常陸國額田といふ処にてまみへし比は三十にも足らす、五峰といふ若おのこに有しか、受領して今や行脚の身と成て、斯る所に廻り逢ひける。まことに優曇花とやいわ(ママ)ん。其姿の替るを、

   替れりな額田の春も二十年

『其日くさ』(竹阿編)

 明和5年(1768年)、五峰は京都岡崎の湖白庵に諸九尼を訪れている。

 明和7年(1770年)6月1日、諸九尼は額田の五峰を訪れている。

水無月朔日、額田の三日坊の許に着けるに、過しとし都にてむつびかたらひし人々のことなど問ひきゝてんと、なをざりなくとゞめられければ、我もまた語りなぐさまんととゞまりける。


 安永3年(1774年)、木兎坊風石は象潟行脚の途上三日坊の家に数日の逗留。

   額田なる三日坊、五峯行脚に委敷
   宗匠なれは、数日の逗留も旧里の
   親しきおもひあり、はいかい略之

とまれとの今宵そ嬉し合歓の花
 木兎

  あふく蚊やりも細き草の戸
三日坊

ひとり来て男のうへる山田哉
三日坊


 寛政2年(1790年)6月、大子町にある八龍神社に芭蕉の句碑を建立。

拝殿の「柳塚奉納」句額に五峰の句が記されているそうだ。

 手向とて植たでもなし言の花    額田  五峯

 寛政5年(1793年)10月12日、芭蕉の百回忌に無礙庵五峰は「芭蕉翁」の碑を建立したと伝えられている。



「芭蕉翁」の上に芭蕉の句が刻まれている。

松風能落葉可水能音凉し

文化8年(1811年)2月29日、没。

五峰の妻素蘭も俳人。

五峰の句

舟で出て中から見たし杜鵑花


髪ゆふた子共からまつころもかへ


名月や空かと思ふ鹿の声


朝顔や今朝焚くものに這かゝり


曙や宵たツ杣に鹿の声


要害は橋から先やかきつばた


半輪は笆にかくす牡丹かな


下もえに鶏の尾をひく籬根哉


蟻飛ふ日を悠然と牡丹かな


冬川に吹流す鳥の古巣かな


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