俳 人
宮本虎杖
〜楚明・鳳秋・丈馬・舟山〜
宮本虎杖ゆかりの地
『つきよほとけ』
虎杖の句
長翠、巣兆、道彦、保吉、碩布、春鴻、葛三とともに加舎白雄八弟の一人で、白雄没後は同門の長老として春秋庵派の拡大につくした。 |
我信ず、白雄先師は頗る英傑の士なり。独り正調を吟詠し、悉く其古きを改む。是に於て名声籍甚、国花者の兆形と謂う所、又我儕の幸なり。弟子蓋し四千名、世に知らるゝ者二百余人。虎杖は其長也。其徒又少なからず。 |
同(信州) 下戸倉 はつ音や勝右衛門 虎杖 |
「はつ音や」は宮本家の屋号。虎杖の祖父と弟が「勝右衛門」を称しているが、虎杖本人は「勝右衛門」とは称していない。虎杖は家督を弟の「勝右衛門」に譲っている。 虎杖の名が『知友録』に見られるから、一茶は寛政3年(1791年)には虎杖を知っていたのであろう。ただし弟と名を混同しているから、面識はなかったものと思われる。 |
元文5年(1740年)、埴科郡下戸倉村中町の豪農宮本佐太郎常則の息子として生まれる。 明和5年(1768年)8月、来信した加舎白雄に師事。虎杖28歳の時である。 |
明和8年(1771年)、白雄は宮本虎杖を伴い北陸行脚に出る。 |
蕉翁の吟行を吟じて嘆息するものは階行せし古慊坊になん。 雛が嶽夏の白根はかくれけり |
嵯峨にて 柴垣の名ところめくる水鶏哉 |
同年秋、白雄は古慊を伴って松阪を訪れ、鳥酔の遺跡一葉庵に入る。 天明4年(1784年)秋、判者(宗匠)の許しを受け「虎杖庵」と称している。春秋庵で虎杖庵古慊の判者披露。 |
秋日の閑をとふものは虎杖菴のある |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
じになん。日数とゞめて一派の判者 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
たるべき事を。それ鋭も鈍も生質也。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
たゞとしごろ誹に堅固なるを此日 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
蕉翁の像前にうつたふとて |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ことごとに我もしらずよ秋の艸 | 白雄 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
かぎりあらぬを霧の三日月 | 古慊 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
狩くらす小鹿の角にしるしゝて | 春鴻 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
はづす筧の道をながるゝ | 呉水 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
やきものに薬のまはる天気なり | 柴居 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
柊のはなを絵にうつしとり | 斜月 |
天明4年(1784年)11月27日、碓花坊也寥は大光寺で没。 |
みちのくの空たよりなや霜の声 | 白雄 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
尺牘寒し図南なる人 | 春鴻 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
みだればこ菴にとしの埃見て | 柴居 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
あまくちねづみあとなかりけり | 古慊 |
天明5年(1785年)3月、白雄は虎杖菴に滞留。 |
やよひ半なりけり、虎杖菴に滞留せしころ。 薄履(げた)やものゝついでの朝ざくら |
天明6年(1786年)、常世田長翠は宮本虎杖を頼って戸倉へ。 天明7年(1787年)春、虫歌観音堂に俳額を奉納。宮本虎杖選。虎杖筆。 |
天明8年(1788年)4月9日から1週間、加舎白雄は海晏寺で芭蕉百回忌繰り上げ法要を行う。 |
常世田長翠、鈴木道彦、宮本虎杖など白雄門下の主だった俳人はすべて参加した。 |
むら雨やわか葉の逕薄ぐらき 杉たちや霧のうへなるはこびあめ 岡の蝶ながめは春につきぬ也 春風やふと吹れたる神詣 人の身も夏野の艸もてる日かな 桜遠く夢のこゝろよ昼の月 |
寛政4年(1792年)、後妻鳳秋と結婚。 寛政5年(1793年)、長子八郎生まれる。 寛政12年(1800年)8月、長楽寺に加舎白雄の句碑を建立。 |
流れ行螢をすくふはゝきかな | 少年 | 八郎 |
享和2年(1802年)、葛三は伊那に伯先を訪ねた。虎杖庵で越年。 享和3年(1803年)、露柱庵春鴻は71歳で没。 |
生殘り焚も口をし蚊遣種 |
享和3年(1803年)2月5日、伊勢の俳人南江は虎杖を訪ねている。 |
五日虎杖に對す。葛僧あり。 |
|
雁が鳴柳の空ハ明にけり | 虎丈 |
(杖) |
|
橘の実をふせたれバ朧月 | 葛三 |
文化元年(1804年)春、虎杖は戸倉自在神社に俳額を奉納。 |
文化5年(1808年)12月10日、一茶は初めて虎杖を訪問したらしい。 |
十 雪折々 戸倉虎杖庵ニ入
『文化五・六年句日記』(文化5年12月) |
同年7月9日、一茶は柏原で祖母三十三回忌取越し法要を営んだが、江戸へ帰る途中のことである。善光寺新町の門人上原文路宅に2泊して戸倉虎杖庵に入った。 |
文化7年(1810年)春、長谷寺二十七世超悟が発起人となって虎杖塚を建立。 |
廿六 晴 戸倉 虎杖菴 泊
『七番日記』(文化7年5月) |
文化8年(1811年)春、坂城町の泉徳寺に虎杖の句碑を建立。 |
文化9年(1812年)夏、虎杖は鴫立庵八世庵主倉田葛三を呼び寄せ、虎杖庵二世を継がせた。 |
[十]六 晴 戸倉虎杖菴ニ入
『七番日記』(文化9年6月) |
文化9年(1812年)11月5日、虎杖の実弟宮本玄徐は60歳で没。 |
萱あつきむねこす春のこ蝶哉 我とねこの胸毛くひぬくおもひかな 脛かゆしたけかり山の艸かぶれ 日に倦て春にはあかず松の風 朝ざくら酒腸にしみるかな 降や雨真すゞが原の蜀天子 鴬の鳴や野風に日のあらし 啼や蛙竹の中道雨くらく 花鳥と春はよみしを羽ぬけ鳥 朝桜酒膓(はらわた)にしミるかな |
文化10年(1813年)9月13日、虎杖庵で加舎白雄の二十三回忌。 文化11年(1814年)8月3日、一茶は江戸に出る途中で戸倉虎杖に入る。 |
三 陰 戸倉虎杖ニ入
『七番日記』(文化11年8月) |
文化9年(1812年)11月14日に一茶が江戸を引き上げて以来、初めての江戸行きである。 文化12年(1815年)、虎杖は梨翁と改名。『豆から日記』 同年、葛三は虎杖庵を去る。 文化14年(1817年)8月15日、中村碓嶺は虎杖庵を訪れ、姨捨山で観月。 文化14年(1817年)、八郎『なりかや』編。 文政元年(1818年)6月12日、葛三没。八郎は26歳で虎杖庵三世を継承。 |
文政8年(1825年)、魯恭『糠塚集』刊行。虎杖庵跋。 |
天保11年(1840年)9月13日、加舎白雄の句碑を建立。乕杖庵舟山書。 |
ときどきはもゆる様子の火串かな むら雨や雁の行方ハ夜明かね 白々とほとけの花や椿さく あハれさハ桔梗の花の白き日に 釜かけて人まつ霜の一人哉 野風ふく正月心別なもの 古郷やたまさかにとて春の雪 山寺や猪に喰れし稲をかる 春の霜家鴨の脛の美しき 虫鳴や月も大きうなるまゝに 何となく春ののりたる柳哉 うぐひすの声のはづみや藪はなれ こほれても嬉し若菜の柳箱 梅ありて月日のたつがおもしろき 何となく春の乗たる柳かな めつらしき年のまわりや帰花 卯の花やすこしかくるゝ家の貧 蚊に迯る工風はつかず草の庵 山寺や猪(しし)に喰れし稲を苅 我乞食せんことしの二百十日かな 早乙女の子をもぬらして戻りけり 我乞食せん今としの二百十日かな 五月雨と言はせてけふは晴にけり |
かた山に残る日かけの桜かな 飛鳥の影覚束な雲の峯 水に影匂へるはるの朝日かな かけらふの影たちわたる垣根かな たそかれや見こしの松の薄もミち わか葉山たゞたゞ道のたよりかな 初影や春にはほしき朝ほらけ 待となれは夢にも啼す黒羽 はふ程もなくて程ゆく田にしかな 野はさらに園の梅さく日和かな 寒菊を大せつ過(ぎ)て折(ら)れけり ひとりたち案山子もおらぬ世が庵 うめが香やちいさき家もあれバある 浦の松山とも見へて霞みけり ほつほつとうれしき夏よ夜の雨 ぬるゝほどふくれて見たし初時雨 梅が香やきかんとすれば人のくる |
宮本虎杖の資料は戸倉町(千曲市)に寄贈され、「戸倉郷土館」に展示されている。 平成16年(2004年)1月29日、宮本さとさんは亡くなり、家も取り壊されたそうだ。 |