俳 人

岩橋一白
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 俗名佐輔。別号東水、曇柳斎。上田川の名主役を勤めた。一茶と葛飾派の宗匠今日庵元夢の同門で、2歳ほど年上であったらしい。一茶の田川訪問は22回、56泊にも及んだそうだ。

 寛政3年(1791年)3月29日、小林一茶は田川の曇柳斎に泊まる。一茶の最初の田川訪問である。

田川 曇柳斎に泊。


 寛政10年(1798年)4月19日、小林一茶は岩橋一白に『さらば笠』の送り状を書いている。『さらば笠』に一白の句はない。

 この送り状は戸谷双烏に届けられたが、双烏は何故か、そのまま仕舞い込んでしまった。

 享和3年(1803年)10月12日、一茶は芭蕉忌に田川に入る。

   十二日 晴 田川二入

   芭蕉の日

影ぼうしの翁に似たり初時雨

『享和句帖』(享和3年10月)

 文化元年(1804年)6月2日、一茶は田川に入る。

   二日 朝霧 田川ニ入

   四日 晴 戌下刻地震

   五日 夜 白雨 六月四日出羽国由利郡地震ニヨリ込

『文化句帖』(文化元年6月)

6月5日、一茶は田川で象潟地震を知る。

同年10月17日、一茶は田川へ。

   十七日 晴 田川ニ入

『文化句帖』(文化元年10月)

 文化2年(1805年)1月22日、24日、2月28日、29日、一白は本所相生町に一茶を訪れている。

   廿二日 晴 野松 二竹 一白来
   廿四日 晴 一白来ル

   廿八日 曇 一白来ル
   廿九日 曇 月船 一白来ル

『文化句帖』(文化2年正月、2月)

 文化3年(1806年)正月28日、一茶は布川の古田月船等と成田山新勝寺に参詣し、田川に入る。

   廿八日 晴 成田参 滑川通 田川入

『文化句帖』(文化3年正月)

 文化3年(1807年)9月25日、一茶は田川で丈左坊と再会。

   廿五日 晴 到田川 京再会丈左坊

『文化句帖』(文化3年9月)

同年10月25日、一茶は来見寺に泊まり、翌26日に田川へ。

来見寺


27日、田川の一白と再び布川に戻る。

   廿五日 晴 北風吹 布川来見寺ニ泊

   廿六日 晴 田川ニ入

   廿七日 晴 一白と布川ニ入

『文化句帖』(文化3年10月)

 文化6年(1809年)2月6日、一茶は田川に入る。

翌7日、佐原に入り、9日、再び田川へ。

   六[日] 晴 田川ニ入

   七[日] 晴 左(佐)原ニ入 南風 夜亥刻出火

   九[日] 晴 田川ニ入 御普請奉行大島源左衛門泊

『文化六年句日記』

 文化7年(1810年)4月6日、一茶は布川から田川に入る。

   六 曇 田川ニ入

灌仏に浴(俗)の桜の咲にけり
   一白

孟宗の名がゆかしいか蝸牛
   仝

雉雲雀なけなけ麦の秋最中
   仝

『七番日記』(文化7年4月)

11日、一茶は布川に入る。

同年10月13日、一茶は布川から田川に入る。

   十三 晴 田川入

   田川題

或時はことりともせぬ千鳥哉

『七番日記』(文化7年10月)

15日、一茶は田川を経て高岡を通り佐原を訪れ、今泉恒丸の墓参りをする。

高岡の瑞泉寺眞城院に一茶の句碑がある。

一茶の句碑


散る木の葉渡世念佛とほりけり

27日、一茶は田川に入る。

   廿七 折々雨 大風 小松通リ田川ニ入

『七番日記』(文化7年10月)

田川に1泊して布川に入る。

 文化14年(1817年)6月6日、一茶は房総最後の旅で田川を訪れた。

   六 晴 大南風 田川ニ入 夜小雨

『七番日記』(文化14年6月)

田川に1泊して布川に入る。

文政3年(1820年)正月12日、一白没。享年62歳。

没年から逆算すると、宝暦9年(1759年)に生まれたことになる。

茨城県稲敷郡河内町田川に墓がある。


正面に辞世句が刻まれている。

延してものばしてもたらず帋鳶の糸

一白の句

白雲の夢を覚して若葉山


何人歟神祭るなり花すゝき


大かたの祭も過し案山子哉


どの牛もよう寝て居るぞさくらちる

隠家や思ふ所にことし竹


鵜ひとつを追まはすなり船のもの


てふ飛や十を頭のいせ参り


長閑さや愛宕で逢しけさの人


きさらきや迚(とて)も桜かさくならは


天窓(あたま)から雪解(ゆきげ)の音も籠り堂


国近くなるほと旅の夜寒哉


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