俳 人
杉坂百明
上総東金に生まれる。通称志蔵。前号大至。土竜庵。白井鳥酔門。鴫立庵四世。在庵16年。 宝暦13年(1763年)6月、松原庵成る。 |
鴬やこゝに岩戸の放し鳥 | 木の女 |
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ことしは南總東金に春を迎て |
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老師の閑居を想像す |
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庵は今霞に船の品さため | 大至 |
明和元年(1764年)11月、『冬篭』(風谷編)。自序。 |
南総東金より |
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はつゆきや冬を忘るゝ梅桜 | 大至 |
明和2年(1765年)9月、鳥酔は輕羽法師と雨月と共に常陸へ旅立。 |
百明坊は南總の藻友に招れて東金古城下へ徐歩す。文通 |
菊の香や段々細き水のおく | 百明 |
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いなつまや舟呼聲の行違ひ | 雨林 |
明和3年(1766年)4月10日、千杏没。 |
薬玉やヒノ記念に薫りけり |
明和3年(1766年)、白井鳥酔は加舎白雄を伴い東金の土龍庵に遊ぶ。 |
遊土龍庵 東金殿山下 仁者の山知者の水誹諧に世を遁るゝものゝ居は山も水も去り嫌ひなし。我か友百明法師か幽棲を尋ねて見まはせはうしろは殿山の岸千歳不易の赤土なり。前はわつかに二三十歩を避て徳利の通ひは足を労せず、左右は人に骨折らせたる茄子さゝげ芋やうのもの目には富たり。 |
明和5年(1768年)7月、鳥酔は百明・烏光と銚子を訪れる。 |
明和6年(1769年)4月4日、鳥酔没。百明鴫立庵四世となる。 明和7年(1770年)8月13日、鴫立庵に百明の句碑を建立。昨烏揮毫。 |
百明房得らひたり昨烏歎書 |
明和8年(1771年)4月23日、諸九尼は鴫立庵を訪れている。 |
廿三日 大磯にいたり、鴫たつ沢の庵を音信けれど、あるじは留守なりければほゐ(い)なくて、 鴫の声なくてうらやミ麦の秋 かく書付て立出けるに、やがて帰たりとて、人して呼とめられて、また立帰りぬ。西行上人の像を拝ミ、鳥酔老人の塚などとぶらひぬ。松の嵐、磯うつ波の音、何となく物悲しく、心なき身にも哀ぞ添ぬる。 |
明和8年(1771年)秋、鴫立庵百明信濃行脚。 明和8年(1771年)、百明『そのきさらぎ』(第4編)刊。 安永2年(1773年)5月、加舎白雄は銚子に向かう途次杉坂百明を訪れている。 |
井の水もふたり分ありしのぶ草、と鳥師の愛し給ひし土竜庵にあそぶ。これぞあるじが盤を撃て歌うたふ居なりけり。 |
安永4年(1775年)、白井鳥酔七回忌に松露庵連中は鳥酔追善句碑を建立。 |
ゆふ凪や礒山遠くきしか啼 | 烏明 |
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しむしむと見れハ黒きを寒念仏 | 鳥酔居士 |
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名月や人静て秋の暮 | 百明 |
安永5年(1776年)2月、『そのきさらぎ』(百明編)序。 |
安永9年(1780年)4月17日、蝶夢は江戸からの帰途、鴫立庵を訪れている。 |
固瀬(カタセ)川・唐が原を過て、藤沢寺に参る。馬入河をこして、大磯の虎の石を見る。鴫立沢の庵によるに、いほぬしは、他国に行てあはず。 |
安永9年(1780年)10月12日、大磯の鴫立庵に芭蕉の句碑を建立。 |
天明3年(1783年)8月、「奥の細道」行脚の途中で病気になり、本宮の塩田冥々宅で療養、快方後郡山宿の佐々木露秀を訪れている。 |
○南總東金木の女子の文 木の女は百明叟の正室にして國風の三十一文字によし手跡も見事にして東金潜り近所の女童の師たり十七言もたのしむ |
見せはやな薺花さく菴の垣 | 木の女 |
一重つゝ鷺の着て行霞かな 青柳や動けはわかる水の中 鶯や起しては日を長うする 螢見や夜照る石を踏あるき 何所からか雀入けり冬こもり やうやうと海へ入けり帰る厂 一雨の跡かも知らずけさの秋 一日も温石(おんじやく)ならでは冬ごもり 石擲のむしろ寄けり梅の花 灌仏や旅で逢たるたのもしさ 雪解や雨を催す昼さがり 夏も今這ひわたる程か藤の花 春けしや柳にかよふ鐘の声 曇れたゝ桜かもとに寄安し けさや秋蜩なきぬ杉木立 月のけふ暮六ツの鐘聞ゆなる 正月も半たちけりいかのほり 若竹や射(うち)に分ゆく投あみ舟 水鳥に鳥のむしり毛流けり 老か旅よしのゝさくら散けりな 紅梅の咲もはじめぬつぼミ哉 明月や人しづまりてあきの月 |
おもひおもひ船を巣立や汐干狩 稲妻や白うこぼるゝ草の露 鶯にあるじあるじの静なり 梅の花見せつゝ母のくしけづる 暮かたき鐘を呼けりかむこ鳥 |