(1882−1953)精神医学者。ドイツに学び長崎医専教授。東京・青山脳病院長。 アララギ派の歌人。最初の歌集『赤光』は近代短歌に衝撃的な影響を与えた。 現代歌人の最高峰と評価され、文化勲章受章。 戦後、山形県にこもったが、晩年の歌集『白き山』はその頂点に聳(そばだ)つ作品といわれている。 草津には昭和8年9月16日に照子夫人と共に訪れ、望雲館に2泊した。 その時の日記には、宿から白根山を見たスケッチが残されている。 |
「望雲館」は慶長4年(1599年)創業の老舗旅館。高村光太郎も昭和2年、昭和8年に泊まっている。7代目は黒岩鷺白という俳人で、小林一茶と親交があった。 |
明治時代、東京帝国大学(現在の東京大学)に「内科にベルツ、外科にスクリバあり。」と言われて、日本近代医学の基礎を築いたのが両博士です。両博士とも無二の親友で、共に草津温泉を科学的に研究し、その医学的効能を世界に知らしめ、またスクリバ博士は、町民に無料で診察を施し、町民から深く親しまれました。 明治40年(1907年)4月4日、東京帝国大学にブロンズ像を建立。戦時中軍需資材として供出されることになり、大学ではセメントでコピーを作ったが、供出前に戦争が終わりブロンズの像は残った。そこで大学はセメントの像を草津町に贈った。 |
草津 二句 梅雨ながら草の色なし硫黄谷 山菜の小鉢ならぶや時鳥
『殉教』 |