新田義貞公は清和源氏新田氏直系の郷土出身の武将である 元弘3年(1333年)5月8日卯刻生品明神の社前に義旗を挙げ、坂東諸国・越後・信濃・甲斐の源氏を糾合して鎌倉を攻め、同月22日執権北条高時の鎌倉幕府を滅ぼした。この功により建武新政が成り、後醍醐天皇より越後守・播磨守・上野介に任じられ、武者所頭人・左近衛中将となる。その後北条時行の乱を契機に南北朝の戦乱が起こり、義貞公は南朝方の忠臣として各地に転戦した。 延元元年(1336年)吉野に移った後醍醐天皇は恒良親王・尊良親王と義貞公を越前に下らせて再起を図った。義貞公は越前平野を支配下に置いたが、南風競わず延元3年(1338年)閏7月2日越前藤島燈明寺畷で斯波高経の軍勢との遭遇戦において壮絶な最期を遂げた。御年38歳であった。 御遺骸は福井県丸岡町の称念寺に葬られた。公の御霊は太田市新田神社、福井市藤島神社にまつられている。太田市金龍寺には供養塔と顕彰碑がある。 |
天保2年(1831年)10月12日、渡辺崋山は妻沼から太田へ。 |
一里、太田といふ処にいたり、又飲す。鯛の切身、あつものなり。風いよいよはげし。 此あたり常州より魚来。冬ハほ鯛、ひらめ、あはび、たこ。 かごかくおのこ、此風はげしきをもて、価をつぐのひかえらんといふ。聞かず。太田ハ令幣使道もて、此駅にとゞめんとするなり。 |
慶長18年(1613年)、徳川家康が徳川家の先祖とされる新田義重の追善供養ために創建。 |