正安3年(西暦1301年)尾島町世良田の新田館(現在の総持寺内)に生まれ、成人して鎌倉の北條氏に仕えていたが、北條氏の横暴を嫌って郷里のこの地に戻る。その後大塔宮護良親王の令旨を受け生品明神に於いて討伐の兵を挙げ、親族足利尊氏の兵を加えてもその数は200有余騎で兵力の不足を嘆く。その時新田家相傳の守本尊安養寺村新田触不動尊の神力に依り甲信越の親族からの援軍を得て2000有余の軍勢で鎌倉を攻め落す。時に元弘3年。義貞33才。
後足利尊氏は北朝に仕え、新田義貞は南朝に仕う。足利氏の非行を嘆き尊氏と戦い、福井の藤島に於いて薨る。時に延元3年(西暦1338年)38才。
建設者 大澤明治 |
平成22年(2010年)、盗難被害に遭う。
平成24年(2010年)5月、生品神社に再建。 |
永正6年(1509年)、柴屋軒宗長は新田庄を訪れている。
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このあした、利根川の舟渡りをして、上野国新田庄に礼部尚純隠遁ありて、今は静喜、かの閑居に五六日あり、連歌二たびに及べり。
露分けし袖に見ゆべき野山かな
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安永9年(1780年)3月25日、蝶夢は木曽路を経て江戸へ旅をする途中、新田の庄のことを書いている。
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道の右のかたに、世良田の長楽寺あり。新田の庄にならびたり。鎌倉のすゑに、世良田・新田の庄は富る者多しとて課役をかけし事の、『太平記』に載し所なり。徳河村は今の 将軍家の御先祖の地にて、一村の年貢を許されて、その由縁の人住居し給ふとかや。岩まつ村には、まだ岩松殿といふ人あり。みな新田の氏族にておはすとぞ。
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