初時雨 猿毛小蓑越 不し氣南梨 芭蕉翁 |
延享4年(1747年)上野新田(現、群馬県太田市細谷)出身。 寛政5年(1793年)筑後久留米(現、福岡県久留米市)にて没す。 大旅行家、尊皇思想家、儒学(陽明学)を信奉し行動。全国各地を歩いて和歌をつくり、酒を好んだ。 彦九郎、数え29歳の時の「赤城行」によると、「安永2年(1773年)11月17日、米野から八崎へ出て、渋川手川を目ざした。旅の目的は、手川の大島郷右衛門と、伊香保大屋12軒の一つである大島甚左衛門を訪ね、大島氏の系譜を調べるためであった。」 この調査は、彦九郎の活動の場が京都にあった時、親身になって世話をしてくれた大島芙蓉(印章の篆刻家で全国に知られ「印聖」と言われた)に頼まれたことによるものだった。 この時、伊香保神社に参拝し、この石に腰掛け、日記をつけたといわれる。 |
伊香保ろの八尺の 堰塞に立つ虹の現ろ までもさ寝をさ 寝ては |
伊香保の山裾にある八尺もある大きな水門(堰塞)からほとばしる水しぶきに朝日が当たって虹がはっきりと見えるようになるまで、 お前と一緒に寝ていられたらどんなに楽しいだろう。是非そうしたいものだなぁ、お前・・・。 |
七日都々 可波屡顔安李 窓寿々美 |
織田軍と武田軍の長篠の戦いで武田軍が負けた後、伊香保に来た武田軍の14名の武士が砦をかねた湯治場として石段街を開いた。 江戸時代になり箕輪城(高崎市)の城主となった井伊直政は、14名の家主に十二の干支と乾・坤を指定し、関所の当番を」させた。 |
10世紀頃から、千明氏がこの地で湯宿を営んでいた。 1502年に室町時代の連歌師「宗祇」が、この地で湯治し、その時「千明仁泉亭」と名付けた。千明氏は石段の方に砦をかねた湯治場をつくった時に、一番下に移った。 |
明治12年の夏、明治天皇、皇后、側室5名、侍従約50名が木暮金太夫他2件に分宿して湯治したところ、翌年側室の柳原愛子様が大正天皇をお生みになったことで、伊香保に御用邸が建てられ、昭和27年に御用邸の台所から出火し全焼するまで続いた。 現在は、群馬大学の保養地となっている。 |