桓武天皇の延暦17年(798年)奥州の黒川郷富岡(現、福島県会津高田町)の役人大口大領が京都で十一面観音像(作、文殊大士)を作らせ郷里の奥州へ観音像を持ち帰る途中谷汲のふもとで像が急にうごかなくなり大領はこの地こそ結縁の地と考え既にここで修行中の豊然上人とともに寺を建てて観音像を安置した。 この時近くの谷間から仏前に供える灯明の油が湧き出たと云う。それから約100年後に醍醐天皇がこの話を伝え聞き谷汲山の山号を贈るとともに華厳寺の扁額を下賜されました。 当寺は西国三十三ヶ所霊場の最後の札所であり満願寺とも伝われる。 大口大領の末孫は富岡屋と号し、現在に至っています。 |
寛和2年(986年)6月22日、花山天皇は右大臣藤原兼家の謀事によって出家させられる。 永延2年(988年)、花山法皇は那智山青岸渡寺に御幸され西国三十三ヶ所第1番札所として定め、谷汲山華厳寺を第33番札所の満願所と定められた。 永祚元年(989年)、花山法皇は北陸へ御巡幸、西国三十三ヶ所の第1番那智山の「那」と第33番谷汲山の「谷」をとって自生山岩屋寺を「那谷寺」と改めた。 |
糸貫川の急流を隔てて見るサラジ山の尨然(ぼうぜん)と大きい形を、西濃第一の景などと誇張しつつ、やがて谷汲に着いた。西国三十三番の打止め札所というので、巡礼の納めた笈摺が一つの蔵に一杯詰め込んである。きょうは笈摺堂も明けてあるというのでそこへ案内された。笈摺の主を調べて見ても面白いことがあろうなど思いつつ下山する途中で、鵜平が施行風呂の話をする。 |
谷汲観音 門前の走り水花桐に来て |
谷 汲 笈摺を置く紫のげんげ田に げんげ田を見盡くし遍路滿願寺
『一隅』 |
谷汲 西國第三十三番美濃谷汲御詠歌「萬づ代の願をここに納めお く水は苔よりいづる谷ぐみ」「今までは親と頼みし笈摺を脱 ぎて納める美濃の谷ぐみ」 美濃のくに谷汲やまの山のまにひぐらし鳴けばしづけくもあるか 谷汲の苔よりいでて砂ながすいまだかすかの水なりしかば 夏山をそがひにしつつこもりたるみ寺の中に入りてゐるはや 谷汲はしづかなる寺くれなゐの梅干ほしぬ日のくるるまで |