美濃の国になる境に、墨俣といふ渡りして、野がみといふ所に着きぬ。 |
天下統一をめざす信長は美濃を攻略するため、再三築城を試みますが、いずれも失敗に終わりました。 業を煮やした信長は、この大任を木下藤吉郎に命じました。 永禄9年(1566年)藤吉郎は、蜂須賀小六・前野将右衛門らの協力を得て直ちに築城の準備にとりかかりました、同年9月12日午前2時、のろしを合図に敵地墨俣へ向かいました。攻めくる斎藤軍と戦いながら、昼は馬柵づくり、夜は築城と昼夜にわたり奔走し、14日には見事築城を完了し、翌15日には信長公が入城しました。 この功績により、藤吉郎は足軽組頭から墨俣城を預かる部将に取立てられ、太閤出世物語の出発となったところで「一夜城」と呼び親しまれています。この一夜城は小さな砦にすぎませんが、歴史的には大きな役割を果たしました。 |
為善朝臣、三河守にて下り侍りけるに、墨俣 といふわたりに降りゐて、信濃のみさかを見 やりてよみ侍ける |
白雲の上より見ゆるあしひきの山の高嶺やみさかなるらん |
阿佛尼が有名な旅日記「十六夜日記」の中で詠んだ歌である 墨俣の渡舟場でまさきの綱にてかけとゞめた非常に危ない舟を浮べた浮橋をわたる心境をはかない浮世の旅路にかけて歌った |
平成18年(2006年)3月27日、墨俣町は養老郡上石津町と共に大垣市に編入。 |