御鎮座は古く人皇十代崇神天皇の御代と伝えられ、国府から南方に当たる故、南宮大社と称せられている。古来金宝の守護神・破魔除災の神と御神威高く、既に千年前延喜の制に國幣大社に列せられ、一宮として、亦広く金之總本宮として崇敬厚い名社である。御社殿は関ヶ原合戦の兵火に遇いて炎上の為、徳川家光公旧に復して再建され、明治維新の神佛分離令に依り堂塔は他に移建され、今日に至る。本殿以下十八棟が国の重要文化財の建築である。
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神楽殿

貞享2年(1685年)、貝原益軒は木曽路の旅で南宮大社のことを書いている。
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社は山の麓に有。大社なり。東にむかへり。鳥居有。垂井の町中の南にあり。その額に正一位勲一等金山彦大神とかけり。社僧十二坊、社人十二人あり。其外小なる社人おほし。社領三百石、公儀より御寄附と云。關が原陣のとき、安国寺爰に陣せしが、此宮を焼はらひける。其後大猷院公の御時、御建立あり。今其時のまゝ也。
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宝永5年(1708年)4月、明式法師は江戸に下る途上、南宮大社のことを書いている。
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南宮のみやしろは、垂井の南なり。不破のしぐれのとしふりて、ちかきころ造榮し給ふ。
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拝 殿

人は少なかった。
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