綾戸古墳は平地に位置する古墳時代終末期(7世紀以降)とみられる円墳。墳丘の大きさは直径32メートルと大きく、周濠や葺き石の一部が確認されている。かつては横穴式石室が開口していたとする記録が残り、特異な須恵器の三足壷や鏡が付近から出土したと伝えられている。 ここから東へ約1キロのところには、三角縁神獣鏡や石製品が出土した前方後円墳の史跡・矢道長塚古墳がある。
垂井町教育委員会 |
朝長の墓にて |
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よしや君弟御達も散るさくら 此筋 |
熊坂長範(張範とも)は平安末期の大盗といわれ、美濃国赤坂で鞍馬から奥州へ下る金売吉次一行を襲い、同行していた牛若丸(のちの義経)にかえって討たれたという伝説的人物ですが、これを脚色したのが謡曲「熊坂」です。牛若丸が強盗を斬ったことは「義経記」などにも書かれていますが、これ等を参考にしてえがかれたのが謡曲でしょう。 その長範がめぼしい旅人を物色するため様子をうかがっていたというのが、この一本松で「物見の松」といわれています。 松のあるところは中仙道と東海道が左右に走る中間にあり、昔は草ぼうぼうの青野ヶ原だったといわれていますが、今も当時の面影を残しています。付近は古墳で、かって濠があったといいます。
謡曲史跡保存会 |
貞享2年(1685年)、貝原益軒は木曽路の旅で「物見の松」のことを書いている。 |
熊坂の長範が物見の松とて大なる松有。赤坂よりゆけば南にみゆ。大垣より行ば北にみゆる。 |
宝永7年(1710年)、谷木因は「物見の松」を訪れている。 |
美濃の国樽井の駅の東に広野あり。青野といふ。一木の松立て、枝配る事千とせをかぞへ、葉を并べてみどりなり。往昔朱雀帝東夷やらひの時、南宮金山彦の大神にねがひ、此木に祓ましまして四手掛松の名を称せり。さるを長範とかや聞へし賊此陰に遠見せしより、世に熊坂が物見の松とは呼れたり。鴬のぬふてふ小笠は一人旅の顔かくし、ほとゝぎすの沓手は駅馬の足たゆげなり。今も黄金のをミなへしを野風に奪はれ、尾花が袖を山おろしの刷とるめり。されば勝母の里に車をかへし、盗泉の水に錫をこらしめ給ふためしを思へば、あゝ名の名にあらざる事たれかかなしまざらんや。 大切の名を盗れな雪の松 |
宝永庚寅冬日 | 白桜下木因書 |
幣懸松 青野が原左の方半町許にあり、又青野の一本松ともいふ。 傳云朱雀帝の御宇、東夷平将門退治の時、中山金山彦大神に祓ましまして、幣懸松の名を賞せり。然るを世人熊坂長範といふ夙賊此ほとりに住んで、徒黨を集め、旅客を襲ひ、此松より遠見せし迚、土人熊坂物見の松といふ。古代の松正徳年中大風に倒れ、今存するは植継の松なり。 |
わる暑く吹くや一ト木の松の音 | はせを |
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大切の名をぬすまるゝゆきの松 | 木因 |
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君か代は鷹の物見や松の陰 | 吉田 | 木朶 |
『木曽路名所図絵』(巻之二) |
明和8年(1771年)4月5日、諸九尼は物見の松を見ている。 |
物見の松とて野の中に一木あり。むかし何がしとかやいひしぬす人のかたミとや、いミじき罪ある名をだにふりにし跡と思へバゆかし。尾こし河すのまた川とやらんいふ大なる河をわたりぬ。 |
享和2年(1802年)3月25日、太田南畝は「近頃枯たり」と書いている。 |
松の林の中をゆけば一里塚あり。右の方に熊坂物見松とて人に知られる松ありしが、近頃枯たりといふ。左に國分寺道あり。 |
垂井、青墓、赤坂は源平時代中仙道の要駅であったことは、義朝が青墓の長者大炊の娘延寿というのを妾としておった、というに見てもほぼ想像される。が、謡曲「熊坂」に「垂井青墓赤坂とて、その里々は多けれども、青野が原の草高く、青墓子安の森茂れば、昼とも言はず雨の中には。山賊夜盗のぬす人等。高荷を落し里通ひの、下女やはしたの者までも、打剥ぎとられ泣き叫ぶ 」とある通り――もとより小説的に誇張されてはおるが、洛中より近江、近江より美濃と警備の次第に弛んで行く様が、ボカシ染めのように薄れて行くそれが如何にも鮮明だ。 |
謡曲熊坂 盗人の晝も出るてふ夏野かな
[俳句稿以後](明治三十四年 夏) |