ここに見られる石垣は今から約370年前の加藤時代に整備された石垣です。 若松城の大手門として堅固な石垣に囲まれ(枡形)、さらに右に曲がった場所には内部を見透かされないように門(北出丸大手門)がありました。 この枡形は敵を三方から攻撃できる利点がありました。 |
天正18年(1590年)、蒲生氏郷は伊勢より会津に移封。 慶長3年(1598年)、上杉景勝は会津120万石に加増移封。 慶長6年(1601年)、上杉景勝は米沢30万石に減封移封。 寛永4年(1627年)、加藤嘉明は松山藩20万石から会津藩40万石に加増移封された。 |
南北朝の頃、葦名氏によって黒川城が築かれたが、文禄元年(1592年)蒲生氏郷が7層の天守閣を建て外郭を築き、黒川の地を若松と改め城の名を鶴ヶ城と命名した。 上杉から再び蒲生、そして加藤となり、寛永16年(1639年)加藤明成が天守を5層にし、北出丸、西出丸を増築して現在の城跡を完成させている。戊辰の役(1868年)には1ヶ月の籠城に耐えた。 |
寛永20年(1643年)、三代将軍徳川家光の庶弟である保科正之が山形より23万石で入封。 文化11年(1814年)8月末、十返舎一九は松本を出立、越後路を経て会津若松へ。 |
へたのよこずき、ちくらぼうとうちつれてあいづにみるに、げにもはんじやうの御城下にて、あきんど、のきをならべ、このところのめいぶつとて、いつさいのさしもの、ぬりものをうるいへおほし。そのほか紙、らうそく、うるしなどおほくいづるめいぶつなり。ちくら坊とりあえず、 子等までもうたひつれたるひとふしは めでためでたの若松の町
「越後路之記」 |
嘉永5年(1852年)1月29日、吉田松陰は会津若松に着き、「清水屋旅館」に泊まった。2月6日まで滞在。 |
廿九日 朝雪、已にして晴る。勢至堂を発し、坂を登り、少(しばら)くにして山巓に至る。是れを勢至堂巓(たうげ)と為す。巓は磐梯山と対す。三代・福良・赤寸・原・赤井を經て、若松に宿す。會津侯松平肥州の都なり。 |
嘉永5年(1852年)3月28日、吉田松陰は再び会津若松へ。 明治元年(1868年)9月22日、若松城開城。 明治7年(1874年)、若松城は取り壊された。 昭和9年(1934年)、鶴ヶ城が国の史跡に指定され、「若松城」と登録された。 昭和11年(1936年)9月7日、与謝野晶子は東山温泉から鶴ヶ城へ。 |
いにしへの蒲生が月見櫓吹く會津の領の秋の山風 秋風が今は行くのみ鶴が城北の出丸も帶の廓も
『冬柏』(會津詠草) |
名曲「荒城の月」が鶴ヶ城と青葉城をモチーフに作詞されたことは、土井晩翠氏を招いた音楽祭であきらかになった。時は昭和21年のことである。 翌年、有志により詩碑建設会が設立され、同年6月5日土井晩翠夫妻を招いた盛大な除幕式が行われた。 この詩碑には、晩翠氏直筆による荒城の月1番〜4番までの歌詞が記されている。 |
昭和40年(1965年)、鶴ヶ城再建。 昭和40年(1965年)9月6日、星野立子は復元した鶴ヶ城を見る。 |
九月六日 会津若松 鶴ヶ城を見る |
秋天に今日より永久に鶴ヶ城 仲秋や復元したる鶴ヶ城 |
平成18年(2006年)4月6日、日本100名城に選定される。 平成18年(2006年)、「荒城の月」は日本の歌百選に選定される。 平成23年(2011年)、赤瓦へ葺き替えが完了。 |