市指定史跡 |
文応元年(一説に南北朝時代ともいう)長沼氏が、この地に築城したのが起源というが、明らかではない。 その後戦国時代、ことに永禄3年(1560年)頃より、長沼をめぐる南奥の戦国大名伊達・二階堂・葦名氏の激突が続いた。 遂に永禄9年(1566年)葦名領となり、葦名盛氏の家臣新国貞通の守城となった。以後、長沼城は、葦名氏会津防衛および仙道攻略の拠点となった。 天正17年(1589年)芦名氏滅亡後、新国氏も伊達氏に屈服。翌18年奥羽仕置のため、白河口より入った豊臣秀吉が、8月7日長沼城に宿営している。この時蒲生氏郷の家臣、蒲生郷安や蒲生主計が長沼城主となった。 慶長3年(1598年)上杉領となり、信州長沼城より島津忠直が移城し、同5年の関ヶ原の戦いには、長沼城が上杉軍の前線基地となっている。慶長6年再び蒲生領となり、蒲生郷治・玉井数馬介が城主として配備されたが、元和元年(1615年)の一国一城令により、戦国の風雲に耐えた長沼城は、栄光の幕を閉じた。
須賀川市教育委員会 |
『碑』より |
昭和13年(1938年)、中山義秀は長沼町を舞台にした『厚物咲』で第7回芥川賞。翌年『碑』を発表。 |