昔、東安達の山あいに「六本の霊松」と呼ばれる松があり、その地は「六本松」と呼ばれていました。ある日、西安達の人が、このうちの二本を掘り起こして西安達に移植してしまいました。それからこの地は「四本松」と呼ばれ、西安達には新たに「二本松」という地名が生れたということです。 こんなお話もあります。…都に住んでいた病弱な姫君が、出羽国へ嫁ぐ途中、疲れ果てて随行の老女とともにこの地で亡くなってしまいました。あわれに思った里の人々は、塚を掘ってふたりを弔いました。ところが、その塚から、二本の松の木が芽吹き、見るまに成長し、やがて霊松と呼ばれる大木にまでなったといいます。以来、この付近は「二本松」と呼ばれるようになったとか。 この地名の由来を受けて、明治20年(1887年)12月15日、東北本線が当地に開通した時、二本松駅が開業しました。 ◆参考資料◆ ■二本松市教育委員会編集「ふるさとの伝え語り」 |
阿多多羅山の山の上に 毎日出てゐる青い空が 智恵子のほんとの空だと いふ |
市の依頼により、日本芸術院・彫刻家・二本松市名誉市民の橋本賢太郎先生が制作し、平成21年10月1日に建立された。 作品は、眉目秀麗な安達太良山の上に澄み渡る青空を指さす、日本女子大学校時代の若き日の長沼智恵子をイメージしている。 智恵子はのちに高村光太郎と運命的な出会いをし、やがて共棲生活を始める。光太郎によれば、智恵子はよく“東京には空が無い”といってなげいたという。 作品テーマは詩集『智恵子抄』所収「あどけない話」の一節にある |
“智恵子は遠くを見ながらいふ。阿多多羅山の山の上に 毎日出てゐる青い空が 智恵子の本当の空だといふ。あどけない空の話である”に由来する。 |
慶応4年(1868年)7月29日、戊辰戦争に出陣した二本松少年隊士成田才次郎(数え年14歳)が、二本松藩伝統の“突き”で長州の将・白井小四郎を倒した史実に基いて制作された。 二本松城跡(霞ヶ城公園)箕輪門前には、本作品を含む同氏制作の「二本松少年隊士群像」が平成8年に設置されている。 |