中山義秀先生は明治33年(1900年)現大信村に生まれ、明治43年(1910年)に二本松第二尋常高等小学校に編入し、同小学校を卒業した。さらに大正7年福島県立安積中学校(現安積高等学校)を卒業、大正12年早稲田大学を卒業、中学校教師として赴任、昭和8年に退職した。苦闘ののち揺るがぬ境地を切り拓き、昭和44年69歳で没す。 先生は昭和13年に「厚物咲」で第7回芥川賞を受賞、戦後は歴史小説において独自の文学を築き、「孤高の文士」として不動の地位を確立した。のち芸術院賞を受賞し芸術院会員となる。 |
白河より移封された丹羽光重公が10年の歳月をかけて山麓に築城したもの。戊辰戦争により落城、昭和57年に箕輪門が再建され、苔むした石垣に見事な庭園美にいにしえの昔が偲ばれる。 |
昭和24年4月19日、土井晩翠七十八翁がわが社の為に作詩された會達製糸社歌の発表会に来双の際、花吹雪の当お城山に杖を曳き、感懐も深く詠じられた1首である。茲に記して記念とする。 昭和31年11月3日
會達製糸株式会社 |
阿多多羅山の山の上に |
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毎日出てゐる青い空が |
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智恵子のほんとの空だといふ |
明治から昭和にかけて詩人として、また彫刻家として有名な高村光太郎〔明治16年(1883年)から昭和31年(1956年)〕が、亡き夫人・智恵子〔安達町出身・明治19年(1886年)から昭和13年(1938年)〕の生涯を痛切な鎮魂の思いをこめて回想した詩集『智絵子抄』は、今でも読む人の心に感動を与えています。 当詩碑は詩集中の「樹下の二人」の冒頭の句で、二人の純愛を永く後世に伝えようと、市内有志及び詩人・草野心平らの尽力により昭和35年(1960年)5月22日に建立されました。 この二つの露頭石は、二本松城を築く際に「夫婦の牛」をいけにえにしたところ、牛の霊は天に昇り、身は石と化したという伝説の石「牛石」と呼ばれています。なお、小さい碑石にも同詩集より「あどけない話」の一節が刻まれています。
二本松市 |
あれが阿多多羅山 |
あのひかるのが阿武隈川 |