立花邸に於けるホトトギス六百号記念柳河俳句会を終へ、久留米、いかだ、小句会。一泊。 父を恋ふ心小春の日に似たる |
虚子が久留米を訪れた時、水天宮に詣で筑後川の清流を眺めて詠んだ句だそうだ。 |
十一月三日 久留米水天宮 虚子句碑除幕 萃香園に て句会 筑水の向ひは既に枯野なる 枯蓮の乱るゝ中に光る水 |
真木和泉守保臣(1813−1864)は明治維新の中心的指導者である。 水天宮神職の家に生れ、早く父を失ったが、よく母に仕え、かねてから学問に励み、武道、音楽にも長じ、藩校明善堂から表彰をうけた。傍らに流れる筑後川は菊地一族の誠忠を語り、少年の時に愛読した絵本楠公記は尊王愛国の精神を培い、長じては水戸学を中心に学識を深め、しかも身をもって実践した。 藩政改革を企ててならず、一時水田に蟄居したが、後に脱出して東奔西走、国事に盡し諸国の志士から「今楠公」と謳われ、その中心的指導者と仰がれた。 彼は蘭方医工藤謙同と親しく、外国の事情にも通じ久留米の医学刷新に盡し、久留米藩医学舘の生みの親といわれる。また早くから薩長連合を唱えたが、時到らず、長州藩と共に倒幕の軍を起こし禁門の変に敗れ、同志16人と天王山に登り辞世の和歌を残して自刃した。 |
いつよりの千歳かわかぬちとせ川 |
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始もはても無き名なりけり |
昭和13年就役以来日支事変太平洋戦争と幾多の戦闘海戦に出撃赫々たる戦果を挙げた軍艦千歳はフィリピン沖海戦に於て勇戦奮闘するも衆寡敵せず 遂にフィリピン・エンガノ岬東方に艦長以下幾百の将兵と共にその勇姿を没した 時に昭和19年10月25日午前九時37分 |
軍艦千歳は筑後川(別名千歳川)の名を取って命名されたものであり艦内神社に水天宮を奉祀してあり |