2021年福 岡

宗栄寺〜名島弁財天〜
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西鉄バス特快29N・BRT系統で「名島運動公園前」下車。

多々良川河口に向うと、名島弁財天の石段があった。


名島弁財天

天正15年(1587年)、豊臣秀吉は、九州出兵の際に当社を詣で、この地に九州の守護とする名島城を築くよう小早川隆景に命じました。その際、隆景は堂を修復して城の鎮守とし、その後、歴代の福岡藩主から崇め敬われました。江戸時代には名島弁財天社と称しましたが、明治維新の神仏分離により名島神社と改称され、弁財天は宗栄寺に祭られるようになりました。現在は蓄財の神として広く信仰されています。

辨財天


昭和39年(1964年)3月、建立。

名島弁財天


宗栄寺

   天台宗 総本山は比叡山延暦寺
   本 尊 薬師瑠璃光如来
   別本尊 弁才天(弁財天)

徳川三代将軍の治世、肥前島原で天草一揆が起こり、幕府はこれを制圧するため九州の諸大名に攻めさせた。黒田藩黒田忠之も出陣し攻めるも屈せず、寛永15年2月11日夜、一揆の兵が黒田、鍋島等の陣を攻撃した。この時黒田の将として1万石を領していた岡田半左衛門利良とその子左右衛門も出陣していたが、この時の戦いに於いて父子ともに敵の銃丸により戦死した。利良の妻は二人の菩薩を弔うため尼となり、藩主に乞い博多妙楽寺を再興して父子を埋葬するとともに、父子の遺品を名島の古塁の麓に納めて精舎を建て、利良の家士手島半兵衛の次男で比叡山で修行していた心性坊俊道を招き開基とした。これが宗栄寺である。亦同じ名島にあった弁才天宮の別当寺神宮寺の末寺であったが、神宮寺は明治初年の神仏分離令により廃寺となり、弁才天社は名島神社となり、弁才天尊は没収され博多・芦屋等転々としたが、名島地区民の強い要請と運動により明治7年1月名島へ還御、宗栄寺が別当寺なり今に到っている。

名島帆柱石へ。

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