都と太宰府政庁とを結ぶ重要な地で、大化2年(646年)こゝに海峡往来の人や船等を調べるため門司関を設け、九州第一の駅とした。むかしより詩歌等に数多く詠まれている。 次の歌は承徳元年(1097年)源俊頼が大宰府の任を終え帰京の途中に詠んだものである。 |
行き過ぐる心は門司の関屋より |
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とゞめぬさゑに書きみたりけり |
文明12年(1480年)9月10日、飯尾宗祇は門司関を訪れている。 |
暮行ほどに門司助左衛門尉家親あるじすべき由侍れば、皆伴ひ行。正しきものなし。夜に入ぬれば、月さやかに成り行くに、海人の漁火焚き添て、浮かべる船の数多き中に、音高く聞ゆる声有。これや、「叩レ舷来二往月明前一」と言へるならんと、聞捨てがたきに、磯がくれの家々に打添る碪の音、取集たる折節も、空飛雁の鳴渡るにも、「誰玉章(たまづさ)のもじの関守」とよめる、唯今のあはれなり。 |
明和8年(1771年)5月、蝶夢は門司関のことを書いている。 |
壇の浦と申は、神功皇后ひとの国責給んとて御祈のために壇を築せ給ひしより、かくいふとなり。漁を業とするものゝ住る所と見えて、たくなは・網など干す匂ひのうるせくて、「夜の宿腥し」の句おもひあたる。赤間の関は山と海の間にて、いとせまし。むかふは門司の関にして、豊前の国なり。海の面わづかに八町余といふ。行かふ寸馬豆人のかたちあざやかなり。音に聞しよりも汐の行かふことはやく、うづまく泡白く見えてすさまじ。 |
文化2年(1805年)10月16日、大田南畝は門司関辺りを歩いている。 |
城門を出て濱邊をゆく。海は左のかたにあり。こゝは名におふ菊の高濱なり。門司か關の跡も此わたりなるべし。 |