北九州市八幡西区藤田2丁目のライオンズマンション黒崎に「櫻屋跡地」の碑があった。 |
江戸時代、黒崎は長崎街道の宿場町として栄え、交通の要地として多くの人やモノが行き交う場所でした。およそ1.1キロメートルに及ぶ宿場の街道沿いには、御茶屋(本陣)、町茶屋(脇本陣)、旅籠、人馬継所、代官所などが置かれました。 櫻屋は黒崎宿に設けられた旅籠です。文化5年(1808年)頃の創業と伝えられ、古くは薩摩藩の定宿となったことから「薩摩屋」と称していましたが、後に「櫻屋」と改めたと言われます。 幕末期、櫻屋には薩摩藩・長州藩・土佐藩などの勤王の志士が多く投宿しました。また、櫻屋の当主は三条実美や東久世通禧など政変で京都を追われた攘夷派の五卿を支援したとも言われています。 櫻屋には離れ座敷の庭に主人古海東四郎正顕(明治6年宇都宮と改姓)と五卿にまつわる歌碑が2基建てられていました。勤王の志が厚い正顕は和歌にも造詣が深く、五卿に対して和歌を献上したと言われています。その時の実美、正顕の和歌が自然石の石碑に刻まれています。正顕の子孫が建立したものです。 |
きかまほし大内山の鶯のこころつくしにもらす初音を | 正顕 |
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九重の春にもれたるうくひすは世のことをのみなけきこそなれ | 実美 |
正顕が宮中の鶯の鳴き声にたとえて京都の様子をたずねたのに対し、実美が「自分は帝のお側にも仕えられない身の上である。ただ世のありさまを嘆き悲しんで見ているほかはない」と答えたものです。 |
さすらひし昔の跡のしるしとて植し小松の千代に栄えよ | 通禧 |
明治42年(1909年)秋、東久世通禧が太宰府天満宮参詣の帰路、三条実美らとともに京を追われた往時を思い櫻屋に滞在したおり、記念に松を植えて詠んだ和歌です。京を追われ、苦しい逃避行を続けた当時のあかしとして、この地に植えた小松が永遠に生い茂るようにとその気持ちを詠じています。後に松が枯れたため、この和歌を刻んだ石碑が建立されました。 |
櫻屋の「離れ座敷」は、江戸時代後期の建築といわれ、床・付け書院・違棚などを持つ書院造りの建物でしたが、平成2年(1990年)に解体されました。 |