2021年福 岡

名島神社〜名島城跡〜
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小早川隆景の築いた「海城」名島城   1587年

九州平定を果たした豊臣秀吉は。筑前・筑後・肥前の一部(37万1300石)を毛利元就の三男で、毛利当主家の重臣であった小早川隆景に与えた。村上水軍由来の水軍の将でもあった隆景は、城地の選定にあたり、海に近く水軍の本拠となる築城を計画、立花山城の出城だったこの名島城を多々良川河口に大規模な船溜りを備えた「海城」に大改修した。実は、これには秀吉自らの指示もあったとされ、九州に異変(九州内の叛乱はもとより、ローマ・カトリックの宣教師たちを尖兵とした欧州植民地列強の日本侵略も想定していた)の際には、中国の毛利氏よりも速やかに対応させる意図があった。

名島神社の鳥居


名島神社と名島城跡

天正16年(1588年)、九州を平定した豊臣秀吉は、この地に城を築くよう小早川隆景に命じ、名島城を九州守護の拠点としました。慶長5年(1600年)には福岡藩初代藩主黒田長政が入城しましたが、福岡城の築城に伴い廃城となりました。また、名島神社は当初、神宮ヶ峯山頂にありましたが、築城の際に現在の場所へ移されました。江戸時代までは名島弁財天社と呼ばれていましたが、明治維新の神仏分離令により、現在の名島神社となりました。祭神は宗像三柱姫大神です。

名島神社


名島城と小早川氏

 名島城は、豊臣秀吉による九州平定後、小早川隆景(1533−1597)が天正16年(1588年)2月25日から築城を開始した城郭です。隆景は、中国地方の大半を勢力下においた戦国大名、毛利元就の三男で、「三本の矢」のエピソードで有名な毛利三兄弟の一人です。城には多々良川河口の丘陵東側から三の丸、二の丸、水堀を挟み、長天守台、西端に本丸の各曲輪を連続して配置し、南側には河口から続いて東西に長い水堀設けられました。城の規模は東西約750m、南北250〜400mで、陸続きとなる南東側に城下町が置かれました。

 築城後、秀佳による文禄・慶長の役(1592−1598)が始まり、隆景は多くの家臣を率いて、天正20年(1952年)に朝鮮へ出兵(唐入り)しました。その間、名島城は、唐入りの軍事的拠点である名護屋城への軍事・生活物資や人材などの補給基地としての役割も担いました。帰国した隆景の養子として迎えられた小早川秀秋(1582−1602)が、文禄4年(1595年)に新たな城主となり、隆景は備後国三原に隠居しました。秀秋が慶長の役に出兵した慶長2年(1596年)6月に隆景は、三原でその生涯を閉じました。

 慶長5年(1600年)には、関ヶ原の戦いの勝利に貢献したことから、秀秋は備前国岡山に移り、新たに豊前国中津から黒田長政が入国しました。長政は翌年から福岡城の築城を開始した際、名島城から建造物や石垣を解体して運んだといわれています。これは、「名島引け」といわれ、黒田家菩提寺である崇福寺(博多区)の唐門や福岡城に移築された名島門、名島城の搦手門と言われている宗生寺(宗像市)の山門にもその言い伝えが残ります。

名島城跡


右は「小早川隆景公名島城入府四百年記念」碑。

隆景公は天文2年(1533年)毛利元就の第三子として生まれ小早川家を継いだ。

天正15年(1587年)筑前・筑後の両国と肥前2郡を与えられてこの地に居城を築いた。

この名島城は三方を海に囲まれた要害堅固な城として知られたが黒田長政の福岡城へ引城にともない廃城となった。

大徳寺中黄梅院二十七世太玄

臥竜桜


   名島城趾

眞葛かき除けつ礎石見る秋雨の暮

『我は我』(七)

昭和29年(1954年)10月18日、水原秋桜子は名島に遊ぶ。

   十八日、名島に遊ぶ。小早川隆景の城址なり

残るものなくて浪寄る昼の虫

鯊釣に荻吹く風や多々良川

『玄魚』

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