宗像大社は沖津宮、中津宮、辺津宮の三宮からなり、宗像三女神を奉斎している。 ここに祀られる宗像大神については、記紀、風土記にも詳らかにのべられており、沖津宮のある沖ノ島からは、古墳時代から平安時代にかけての貴重な祭祀神宝(国宝)が多数出土している。 また宗像大神を奉斎する宗像氏は古代の有力な氏族であり、中世には院庁、鎌倉、室町両幕府らと関係をもち、戦国記にもその地位を守り抜いた豪族であった。 旧境内の概要は、現存する天正6年(1578年)の造営絵図により想定できるが、現境内もなおよく当時の形状を保っている。
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一月六日 晴、行程三里、神湊、隣船寺。 赤間町一時間、東郷町一時間行乞、それから水にそうて宗像神社へ参拝、こんなところにこんな官幣大社があることを知らない人が多い。 |
ちはやぶる鐘の岬を過ぎぬともぐれども われは忘れじ志賀の皇神(すめかみ) (巻七・1230) これは詠み人しらずで、博多から都への帰路でしょうか、当時の人が海の難所である鐘岬の海(福岡県宗像市)を航海の安全を祈りながら通過した時の歌です。「私は今、ようやく宗像大神様の御領海である鐘岬の海を過ぎようとしていますが、さきに志賀海神社の神様に海の安全をお祈りして船出した時のことを忘れることは出来ません」と海上をつつしんで航海した古代人の心情がうかがわれます。 大汝(おほなむち)少彦名の神こそは名付けそめけめ名のみを 名児山(なごやま)と負ひてわが恋の千重の一重も慰めなくに (巻六・963)
(冬十一月大伴坂上郎女筑前国宗像郡名児山を超える時に作れる歌) 大伴坂上郎女(大伴旅人の妹)の作。「大国主命と少彦名命さまが名付けられたのであろう、人の心を和めるという名児山をも、今ここを歩いていると中々険しい山路で、この分では私の恋のつらさの千分の一も和められそうにないような気がいたします。」と女性らしい心が詠まれています。 名児山は福津市勝浦から宗像市田島を抜け大社へと通じる大阪峠の北側。 |