金印公園は、紀元57年に後漢の光武帝が奴国(なこく)の王に与えたとされている「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」と記された金印が、天明4年(1784年)にこの付近で発見されたことを記念した公園です。 公園の入口には、大正11年(1922年)に建立された「漢委奴国王金印発光之処」と記された石碑があります。 展望広場には、金印のモニュメントがあります。博多湾と福岡の街を背景に古代の大陸との交流の様子を想像してみてください。 |
志賀島は、博多湾の玄関口に位置し海上交通の要衝であるため、航海術にたけ、漁業や大陸との交易で活躍した古代海人族の「阿曇(あずみ)氏」発祥の地といわれています。日本最古の歌集「万葉集」には、阿曇氏が代々祭祀を司る志賀海神社や航海や島の営みが多く詠まれ、その歌碑や蒙古襲来にまつわる火焔塚や蒙古塚など、周囲12kmの島は、神話と悠久の歴史を感じさせる宝庫です。 |
博多へもいととくつき給ふ。此わたりに名所どもおほかり、しがの島先まのあたりにひかへり、海の中道ははるばると一筋浪を分たる白洲也、山までつゞくとよめるもしるくぞみえたる、海の中道より、しがの島へわたる所こそ、しかすかの渡なれ、 |
帯水横 |
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陳両市 |
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相望 |
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友誼永 |
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恒 |
海ひとつ隔てて両市は向き合っている |
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その友情は永遠に変わることはない |
福岡市は、1979年5月2日中国広東省の広州市と友好都市になりました。この詩碑は福岡・広州両市の友好都市締結1周年を記念し、両市の永遠の友好を祈って建立されました。碑文は広州市革命委員会の楊尚昆主任(市長)の書を刻したものです。 |
戦後頻傳友誼歌 北京聲浪倒銀河 |
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海山雲霧崇朝集 市井霓虹入夜多 |
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懐舊幸堅交似石 逢人但見咲生窩 |
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此来收穫將何似 永不重操室内戈 |
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一九五五年冬訪問日本歸途在福岡作 |
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轉瞬已十八年矣一九七四年冬 郭沫若 |
戦後頻りに伝う友誼の歌 |
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北京の声浪は銀河を倒(さかしま)にす |
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海山の雲霧は崇朝に集まり |
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市井の霓虹(ネオン)は夜に入りて多し |
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旧(いにしえ)を懐(おも)えば堅からんことを幸(ねが)う交り石の似(ごと)く |
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人に逢えば但(ただ)見る咲(わら)いて窩(えくぼ)を生ずるを |
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此来(このたび)収穫は将に何似(いかん) |
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永(とこ)しえに重ねて室内(きょうだい)の戈を操(と)らじ |
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一九五五年の冬 日本を訪問し歸途 |
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福岡に在りて作る 轉瞬(またた)くまに已に |
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十八年年なり |
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一九七四年冬 郭沫若 |
郭沫若/A>について 世界的に著名な書家であり、詩人、歴史文学者です。九州帝国大学(現在の九州大学)在学中には志賀島をよく歩いたと言われています。 郭沫若が1955年に福岡を訪れた際に、日中の友誼をたたえ、懐かしい福岡に再来した喜びと永遠の平和を願う内容を綴った詩を18年後の1974年に自書した七言律詩です。 |
戦後頻りに伝わる友誼の歌 |
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北京の声浪(うたごえ)は銀河を倒す |
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海山の雲霧は朝(あした)に崇(み)ちて集り |
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市井の霓虹(ネオン)は夜に入りて多し |
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旧(いにしえ)を懐(おも)えば幸に堅き交り石(いわお)の似(ごと)く |
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人に逢(めぐ)りあえば但(ただ)見る笑(ほほえ)みえくぼの生ずるを |
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此来(このたびきた)りて収穫は将に何に似たるや |
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永(とこし)えに室内(きょうだい)の戈を操(と)らじと |
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一九五五年の冬 訪日帰途 福岡にて作る |
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瞬く間に十八年の歳月が流れた。郭沫若 |
金印は1784年(江戸時代)に、この公園の付近で出土したと推定されており、中国の「後漢書」には、紀元57年に、後漢の「光武帝」が弥生時代に福岡地方の小国であったとされる「奴国」の王に、この金印を与えたとされています。 当時でも大変貴重な金印が、なぜこの志賀島で見つかったのか。これには、後に起こった大乱などにより隠されたという説とその際遺棄されたとする説が有力。ほかに奴国の王の墓や宮殿が志賀島にあったのでは、という説もありますが、現在でもその謎は解けて居ません。 |
実際にどんな風に |
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使われていたのか? |
金印は、大切な公文書や荷物の封印に使われたそうです。荷物や文書を入れた箱を紐でしばり、その結び目に付けた粘土に金印を押して封をし、文書の秘密を守るカギの役割を果たしていました。1世紀という昔に中国との交流を証明する貴重な文化財です。どんな文書が入っていたかと思うと、ワクワクしませんか?現在国宝に指定され、福岡市博物館に常設展示されています。 |
金印は、一辺2.3センチ、重さ108 グラムの金塊で鈕(つまみ)がヘビをかたどっており、「漢委奴国王」と刻まれています。 金印の出土地は道路脇に建つ石碑から海に向かって右斜め前に行った所と推定されます。 金印の本物は、福岡市博物館で保管中です。 |