香椎宮参道は頓宮から香椎宮へ約1kmの参道です。 香椎宮へ天皇名代として勅使が派遣され、神前に御幣物を奉納して御祭文を奏上します。そのとき、厳粛、盛大に執り行われるのが「勅祭」です。大正14年(1925年)からは10年毎に行われています。 香椎宮参道は、大正14年(1925年)の勅使の参向を機に大改修を行い、「勅使道」と名付けられました。 2年に1度開催される春季氏子大祭の御神幸行列は、本宮での「御発輦祭」にて踏歌や獅子楽が奉納され、頓宮までの楠並木の参道では3基の御神輿(おみこし)を中心に、稚児、鎧兜行列など華やかに「お下り」神事が執り行われ、御神輿は頓宮に1泊され、翌日「お上り」神事の御神幸が執り行われます。 大正15年(1926年)、福岡県の各団体により165本の楠木祭が行われ、今では見事な緑の大木となり道行く人を和ませてくれています。 参道は福岡市のアメニティ百選にも指定されています。
福岡市東区役所/香椎東校区自治協議会 |
明治32年(1899年)、奈良県に生る。 大正6年。「ホトトギス」に倚り高浜虚子に師事。 昭和4年、俳誌「かつらぎ」を創刊。60年間主宰す。 著書「青畝風土記」他。 |
隆家卿太宰帥にふたゝびなりて、のちのたび 香椎社に參りたりけるに、神主ことのもとと 杉の葉をとりて帥の冠(かうぶ)りに挿すとてよめる
神主大膳武忠
ちはやぶる香椎の宮の杉の葉をふたゝびかざすわが君ぞきみ |
神功皇后様が「とこしへに本朝を鎮め護るべし」と祈りこめられてお植えになった杉で紀元860年(西暦200年)のことであります。 |
千早振る香椎のみやの綾杉は |
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神のみそぎにたてる也けり |
『新古今和歌集』(巻第十九)の神祇歌、「詠み人知らず」の歌である。「香椎宮の杉をよみ侍りける」とある。 明治29年(1896年)9月、夏目漱石は夫人と北部九州旅行をして香椎宮を訪れている。 |
香椎宮 秋立や千早古る世の杉ありて
9月25日(金)子規宛て書簡 |
明治43年(1910年)3月10日、河東碧梧桐は香椎宮に参詣した。 |
踵を返して香椎宮に詣でた。仲哀天皇の遺志を継いで、更に隣邦征服の雄図を実現せられた女后の大略は、万世の下我等大和民族の亀鑑とすべき所である。 |
祭神は、仲哀天皇、神功皇后、応神天皇、住吉大神。3世紀ごろ、仲哀天皇は国の内外を平定されるため、神功皇后とともに、この地に橿日宮(かしひのみや)を営まれました。当宮は、この地で没した仲哀天皇の霊を、神功皇后が祭られたのが起源とされており、古くは「香椎廟」と称され、朝廷や人々の崇敬を受けてきました。また、享和元年(1802年)に再建された本殿は「香椎造」と呼ばれ、その優れた建築様式は国の重要文化財に指定されています。 |
十月二十三日。筑前香椎宮参拝 椎の露香椎の宮に来りけり うつむいて草じらみとる袴かな 折りもちし茱萸の花捨て惜みつゝ |
西鉄香椎駅で降りて、海岸の現場までは、歩いて十分ばかりである。駅からは寂しい家なみがしばらく両方につづくが、すぐに切れて松林となり、それもなくなってやがて、石ころの多い広い海岸となった。この辺は埋立地なのである。 風はまだ冷たかったが、海の色は春のものだった。荒々しい冬の寒い色は逃げていた。志賀島に靄がかかっていた。
松本清張『点と線』 |