2019年福 岡

香椎宮〜碑巡り〜
indexにもどる

福岡市東区香椎にある香椎宮(HP)に行ってみた。

香椎宮の鳥居


香椎宮参道(勅使道)

 香椎宮参道は頓宮から香椎宮へ約1kmの参道です。

 香椎宮へ天皇名代として勅使が派遣され、神前に御幣物を奉納して御祭文を奏上します。そのとき、厳粛、盛大に執り行われるのが「勅祭」です。大正14年(1925年)からは10年毎に行われています。

 香椎宮参道は、大正14年(1925年)の勅使の参向を機に大改修を行い、「勅使道」と名付けられました。

 2年に1度開催される春季氏子大祭の御神幸行列は、本宮での「御発輦祭」にて踏歌や獅子楽が奉納され、頓宮までの楠並木の参道では3基の御神輿(おみこし)を中心に、稚児、鎧兜行列など華やかに「お下り」神事が執り行われ、御神輿は頓宮に1泊され、翌日「お上り」神事の御神幸が執り行われます。

 大正15年(1926年)、福岡県の各団体により165本の楠木祭が行われ、今では見事な緑の大木となり道行く人を和ませてくれています。

 参道は福岡市のアメニティ百選にも指定されています。

福岡市東区役所/香椎東校区自治協議会

小原菁々子句碑


綾杉のこぼす神威の露涼し

明治40年(1907年)、小原菁々子は福岡市呉服町に生まれる。

平成3年(1991年)10月、句碑建立。

平成12年(2000年)、没。

阿波野青畝の句碑もあった。


爽やかに宿祢杓みけむ不老水

平成元年(1989年)の句。句集『西湖』所収。

阿波野青畝

明治32年(1899年)、奈良県に生る。

大正6年。「ホトトギス」に倚り高浜虚子に師事。

昭和4年、俳誌「かつらぎ」を創刊。60年間主宰す。

著書「青畝風土記」他。

平成2年(1990年)4月8日、句碑建立。

平成4年(1992年)12月22日、93歳で永眠。

楼 門


折しも桜の季節であった。

裏から見た楼門


八重桜


   隆家卿太宰帥にふたゝびなりて、のちのたび
   香椎社に參りたりけるに、神主ことのもとと
   杉の葉をとりて帥の冠(かうぶ)りに挿すとてよめる
神主大膳武忠
ちはやぶる香椎の宮の杉の葉をふたゝびかざすわが君ぞきみ


御神木 綾杉


神功皇后様が「とこしへに本朝を鎮め護るべし」と祈りこめられてお植えになった杉で紀元860年(西暦200年)のことであります。

綾杉の下に新古今の歌碑があった。


千早振る香椎のみやの綾杉は

   神のみそぎにたてる也けり

 『新古今和歌集』(巻第十九)の神祇歌、「詠み人知らず」の歌である。「香椎宮の杉をよみ侍りける」とある。

 明治29年(1896年)9月、夏目漱石は夫人と北部九州旅行をして香椎宮を訪れている。

   香椎宮

秋立や千早古る世の杉ありて

9月25日(金)子規宛て書簡

 明治43年(1910年)3月10日、河東碧梧桐は香椎宮に参詣した。

踵を返して香椎宮に詣でた。仲哀天皇の遺志を継いで、更に隣邦征服の雄図を実現せられた女后の大略は、万世の下我等大和民族の亀鑑とすべき所である。


中 門


祭神は、仲哀天皇、神功皇后、応神天皇、住吉大神。3世紀ごろ、仲哀天皇は国の内外を平定されるため、神功皇后とともに、この地に橿日宮(かしひのみや)を営まれました。当宮は、この地で没した仲哀天皇の霊を、神功皇后が祭られたのが起源とされており、古くは「香椎廟」と称され、朝廷や人々の崇敬を受けてきました。また、享和元年(1802年)に再建された本殿は「香椎造」と呼ばれ、その優れた建築様式は国の重要文化財に指定されています。

枝垂れ桜


昭和5年(1930年)10月23日、高浜虚子は香椎宮に参拝した。

十月二十三日。筑前香椎宮参拝

 椎の露香椎の宮に来りけり

 うつむいて草じらみとる袴かな

 折りもちし茱萸の花捨て惜みつゝ


竹内宿禰の像があった。


西鉄貝塚線「香椎宮前」


 西鉄香椎駅で降りて、海岸の現場までは、歩いて十分ばかりである。駅からは寂しい家なみがしばらく両方につづくが、すぐに切れて松林となり、それもなくなってやがて、石ころの多い広い海岸となった。この辺は埋立地なのである。

 風はまだ冷たかったが、海の色は春のものだった。荒々しい冬の寒い色は逃げていた。志賀島に靄がかかっていた。

松本清張『点と線』

九州大学病院へ。

2019年福 岡に戻る