古来、歌枕として知られ、伝説の「苅萱道心と石堂丸」ゆかりの地としても有名です。 ただ、古くからあったとしての様子は、現在のところ良くわかっていません。 確かな史料としては、室町時代、苅萱関で通行料を徴収していたことを示す文書があり、 また、この関を通った連歌師宗祇は「かるかやの関にかかる程に関守立ち出でて我が行く末をあやしげに見るもおそろし」と書き残しています。 |
苅萱の関守にのみ見えつるは人もゆるさぬ道べなりけり
『新古今和歌集』(巻第十八雑歌下) |
文明12年(1480年)9月20日、宗祇は苅萱の関を越えている。 |
苅萱の関にかゝる程に、関守立出て我行末を怪しげに見るも恐ろし。 数ならぬ身をいかにとも事問はばいかなる名をや苅萱の関 |
慶長3年(1598年)6月27日、石田三成は博多から太宰府へ。 |
廿七日には宰府へかへり給ふ、道すがら又みる所どもおはし、かるかやの關は名乘とがむるさ(たカ)よりもなし、四王寺の峰は此うへ也、天拜か岳も見わたしや。 |
明和8年(1771年)5月、蝶夢は苅萱の関の跡を見ている。 |
苅萱の関の跡は、松二株田の中に有るを見やる。此関は中むかしまでも有けるにや。宗祇の道の記に、関にかゝる程に関守立出てわが行すゑをあやしげに見るも恐ろし。「数ならぬ身をいかにともことゝはゞいかなる名をやかるかやの関」と詠しためしあり。鎮西府すたれぬる世にも、博多は九州の要津なれば、関守を置て非常をいましめたるなるべし。 かるかやの関や茂りし草の中 桐雨 |
この付近の地名は関屋といい、中世まであったといわれる関所「苅萱関」に由来しています。 この前の道路は、江戸時代に整備された福岡と日田を結ぶ日田街道です。 関屋は太宰府天満宮参詣道が日田街道に合流する場所であったため、 茶屋が並び「往来の人しげきこと東海道も同じといへり」(菱屋平七「筑紫紀行」享和2年(1802年))と記されるほどの人々の往来があったようです。 その後、昭和のはじめ頃になると、 関屋の街道沿いには、 菓子屋、石屋、桶屋、魚屋、干物屋、飴屋などが建ち並び、賑わいを見せていました。 |