昭和7年(1932年)7月31日、九軌到津遊園地として開園。 昭和8年(1933年)11月3日、杉田久女は母をつれて到津遊園地に行く。 |
十一月三日。朝かの宮妃殿下こう去。けふは明治大帝の御日なるに、いとも感深し。うなぎをたべてのち母をつれて、午後、到津遊園地に菊花を見る。 くねりふす伏屋の菊も明治節 |
昭和9年(1934年)2月21日、種田山頭火は到津遊園を訪れている。 |
春光うらゝかである、満ち足りた気持である。 星城子君我儘不出勤、自から称して禄盗人といふ、いつしよにぶらぶら歩いて到津遊園鑑賞。 動物園はおもしろい、獅子、虎、熊、孔雀、兎、鶴、等々には好感が持てるが、狐、狸、猿、鸚鵡、等々には好感が持てない、殊に狐は悪感をよぶばかりだ。
『其中日記(五)』 |
昭和13年(1938年)5月、久留島武彦の提唱により到津遊園地内に桃太郎像が建設された。 昭和15年(1940年)頃、北九州俳句大会が到津遊園で催された。 昭和25年(1950年)5月1日、桃太郎像は大分県玖珠町の三島公園に移された。 昭和32年(1957年)3月、河野静雲の句碑建立。 平成7年(1995年)5月14日、種田山頭火の句碑建立。 平成14年(2002年)4月13日、到津の森公園として開園。 |
到津遊園 |
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人影ちらほらとあたゝかく獅子も虎もねむってゐる |
この句碑は河野静雲の句碑で、静雲はホトトギス系俳壇の巨匠である。昭和15年ごろ北九州俳句大会が到津遊園で催されたとき選者として来園し、当時の園長(阿南哲朗氏)から園内吉祥寺山が苅萱道心(石堂丸の父)のゆかりの地であるという話をきき一句を求められて“発心は悲し勇ましほととぎす”という一句をうたわれた。阿南氏はこれを句碑にすることを約したが、その後戦争のため遊園が一時閉鎖になったり、戦後阿南氏が遊園を去られたりして沙汰やみになっていた。ところが各地に句碑建立が相つぐのに刺激されて昭和32年3月に建立された。石は耶馬溪の石で、字は静雲の自筆である。
いとうづゆうえん |