東京帝国大学卒業(明治33年)。ドイツに多年留学しキリアン教授の元で研鑽に努めた。帰国後、本学耳鼻科初代教授となり、日本耳鼻咽喉科学会の創説に関わり、世界医学会議の日本代表として活躍した。教育・研究・臨床に新しい体制を啓き、後継者輩出の学風を興した。また短歌に秀で、文壇でも名声高かった。 |
外来者専用駐車場の隅に久保猪之吉先生の像があった。

明治40年(1907年)、久保猪之吉帰国。福岡医科大学教授となる。
明治45年(1912年)、長塚節は喉頭結核を患い、久保猪之吉博士のもとで治療を続けたが、大正4年(1915年)、その甲斐もなく37歳で亡くなった。
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大正7年(1918年)9月、郭沫若は旧制第六高等学校から九州帝国大学医学部に進学。 |
大正9年(1920年)8月12日、斎藤茂吉は雲仙で久保猪之吉博士の診療を受ける。
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大正10年(1921年)3月17日、斎藤茂吉は長崎から東京へ向かう途中で久保教授を訪れている。
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大正11年(1922年)3月24日、高浜虚子は久保博士を訪ねた。
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大正12年(1923年)3月31日、郭沫若は医学士で卒業。 |
昭和14年(1939年)11月12日、64歳で没。青山墓地に埋葬される。
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久保猪之吉の歌碑

霧ふかき
南独逸の
朝の窓
おぼろに
うつれ
故郷の山 |
昭和35年(1960年)5月、建立。
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