2021年福 岡

筥崎宮〜碑巡り〜
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福岡市地下鉄箱崎線「筥崎宮前」下車、筥崎宮へ。

唐船塔

謡曲「唐船」は、日本に捕われた唐人祖慶官人(そけいかんにん)が箱崎殿(筥崎宮大宮司)に仕え、日本人妻との間に2人の子をなして平和に暮らしていた。

やがて唐土に残した子供2人が迎えに来たので箱崎殿はこれを憐み日本で生まれた子も連れて帰ることを許した。そこで親子共々喜んで帰ったが、夫婦、母子別れの悲劇もからまった物語である。迎えに来た子が、父がもし死んでいたら建てようと持ってきた供養塔が、この塔といわれている。

歌は聖福寺の画僧仙腰a尚の作で、

「箱崎のいそべの千鳥親と子と、なきにしこえをのこす唐船」

又祖慶官人と妻とが別れる時に腰かけて名残を惜しんだといわれる一対の石を「夫婦石」といっている。

仙腰a尚の歌碑


箱崎のいそべの千鳥親と子と

      なきにしこえをのこすから船

元寇歌曲碑


四百余洲を挙る 十万余騎の敵
国難ここに見る 弘安四年夏の頃
なんぞ怖れん我に 鎌倉男子あり
正義武断の名 一喝にして世に示す
多々良浜辺の戎夷 そは何蒙古勢
傲慢無礼もの 倶に天を戴かず
いでや進みて忠義に 鍛えし我が腕(かいな)
ここぞ国のため 日本刀を試し見ん
こころ筑紫の海に 浪押し分けて往く
ますら猛夫(たけお)の身 仇を討ち還らずば
死して護国の鬼と 誓いし箱崎の
神ぞ知ろし召す 大和魂いさぎよし
天は怒りて海は 逆巻く大浪に
国に仇をなす 十余万の蒙古勢は
底の藻屑と消えて 残るは唯三人(みたり)
いつしか雲はれて 玄海灘月清し

昭和56年(1981年)3月29日、建立。

元の国が、文永(1274年)と弘安(1281年)の2度に亘って襲来してから、700年以上になります。

当時、私達の祖先は博多湾の海岸一帯に防塁を築き、神社仏閣に敵国降伏を祈願するなど、国をあげての防衛に神仏のご加護もあって日本征服の野望を挫折させたのであります。

この祖先の一致団結の防衛をたたえ、私達が今日あることに感謝するため、陸軍軍楽隊員の永井建子が、90年前作詞作曲した唱歌「元寇」を長く保存したいために「日本唱歌保存愛唱会」が元寇ゆかりの筥崎宮の境内にこの碑を建立した次第であります。

河野静雲の句碑


鯖雲や大神風のこと語る

昭和38年(1963年)5月26日、鴻臚発行所建立。

筑前琵琶歌「神風」の歌碑


かゝり志程に七月晦の夜半より
  一天俄に掻き曇り
    神風ぞつと吹き起る
   皇紀二千六百五十年

平成2年(1990年)、御大典筑前琵琶発祥百年記念に建立。

楼 門


文禄3年(1594年)、小早川隆景(筑前名島城主)造営。

祭神は応神天皇(八幡大神)、神功皇后、玉依姫命。

筥崎宮は醍醐天皇の延長元年(923年)に創建され、延喜式神名帳に八幡大菩薩筥崎宮一座名神大社とある。宇佐岩清水両宮と共に日本の三大八幡として朝野の崇敬あつく、特に鎌倉時代以降は武神として武家の信仰をあつめた。

なお、「敵国降伏」の宸翰(しんかん)を揚げる楼門は伏敵門として有名である。

国指定重要文化財石燈籠


天正15年、豊臣秀吉は九州平定ののち6月8日からおよそ20日間現在の本殿に陣を構え、京都から千利休を呼び、石田三成・小西行長等の武将達と筥崎茶会を催し、その折千利休が奉納した石燈籠であります。

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