令和2年(2020年)8月19日・20日、に大濠公園能楽堂で「第61期王位戦」7番勝負・第4局が行われた。 藤井棋聖が木村王位を80手で破り、王位を獲得した。 |
名島城の脇門であったが、黒田長政が現在地に福岡城を築き居城を移すとき、24騎の一人である林掃部にさげ渡され、邸宅の門として使用されていたという言い伝えを持つ。 |
福岡藩初代藩主黒田長政が、慶長6年(1601年)から7年の歳月をかけて築いた城の跡です。天守台を中心にして本丸、二の丸、東西の三の丸からなり、周囲を堀で囲む構造です。47の櫓を築きましたが、そのうち多聞櫓、祈念櫓、(伝)潮見櫓は現在でも見ることができます。藩主ゆかりの地、備前国福岡(現在の岡山県瀬戸内市付近)にちなんで福岡城と名付けられましたが、別名舞鶴城とも呼ばれます。昭和32年に国史跡に指定されました。 |
待ちわびて 花のたよりを 問う人の 心にふれて 今咲かんとす |
本丸は、藩主が政務を行うとともに、住居としても使われた「本丸御殿」があり、天守台へと続く福岡城の中心部です。 天守台への入口となる「鉄御門跡」が残っていますが、要衝の門にふさわしく、敵の侵入を防ぐため幅が狭くなっています。高く積まれた石垣の上に櫓や塀が張り巡らされ、上から攻撃できるようになっていました。 定説では福岡城には天守閣がもともと建設されなかったとされていますが、近年では天守閣の存在をうかがわせる文章が発見され、「はじめは天守閣が建設されたが、後年取り壊されたのではないか」という説も説得力と増しており、「幻の福岡城天守閣」をめぐる議論が続けられています。 |
歴代の福岡藩主も眺めたであろう天守台跡からは、福岡市内360度全方向のパノラマを楽しめます。江戸時代なら福岡城下を一望できたことでしょう。そして、もしも天守閣が存在していたとしたら、そこからはより一層爽快な眺めが得られたはず。この天守閣の有無については議論されていますが、仮に存在したとすると、天守台の礎石や石垣の規模から5層の大天守閣が建っていたと推定され、東側に中天守、小天守が立ち並ぶ52万石の大藩にふさわしい偉容を誇ったに違いありません。 |
筑前今様の「酒は飲め飲め」で知られる母里太兵衛(母里但馬守友信)は、黒田二十四騎の一人で、福島正則から名槍日本号を飲み取った豪傑として知られている。黒田長政が筑前入国後、6つの支城の一つ大隈城主となったが、慶長20年(1615年)6月6日病没した。 現在の天神2丁目の野村證券株式会社の地は、母里太兵衛の当時の屋敷で、この長屋門はそこに構えられていた。武家屋敷長屋門として代表的なこの江戸時代の優れた建造物を末永く保存していくため、昭和31年に県の文化財に指定され、同40年にこの地に移築されたもので、今もなお往時の姿を伝えている。
福岡市教育委員会 |