昭和27年(1952年)11月15日、高浜虚子は星野立子と佛心寺を訪れている。 |
十一月十五日 福岡 田中紫紅邸に在る坊城一家訪問 都府楼趾 に至る 草枯の礎石百官卿相を この秋や観世音寺の鐘を聴き 冬の山久女死にたるところとか |
都督府古址を訪ね、花鳥山仏心寺を訪ね、太宰府で俳 句会。 紅葉行遠きものほど親しまれ 在りし日の久女も斯くや山紅葉 |
靜雲和尚の花鳥山佛心寺に行く。そこに建ちたる虚子堂といふのを見る。 虚子堂と名づけしことよ萩芒 立子 帶塚も一見。この裏山は昔太宰府の時を打つ太鼓のあつたところであつて、それをなまつて今は月山といつてゐるさうである。 帶塚は月山裾に明易き 虚子 以上句碑、虚子堂、帶塚を見る事も一昨年來の宿題なりし。 |
帯塚はすでに古りたり木の実降る |
昭和42年(1967年)9月24日、書。 昭和54年(1979年)1月24日、建立。 |
昭和24年ホトトギス同人で時宗の僧河野静雲は、此の月山の敷地を柳川の同人木下三丘子の嗣子木下潤氏から俳句の道場を建立せんものと提供されて、この地に庵を結んだ。 河野静雲の師である高浜虚子は太宰府をこよなく愛し道場建立に尽力、多くの掛軸用の句を揮毫されて、その浄財と全俳人の貧者の一燈を捧げて、この寺を建立される。 高浜虚子により寺名は「花鳥山佛心寺」と名付けられ、又御堂を虚子堂とされた。 松尾芭蕉、正岡子規、高浜虚子との流れを汲む西日本唯一の俳句の道場であり、またホトトギス派の本山としてその名を留めている。 高浜虚子愛用の帯をこの地に埋め帯塚としており、俳人たちの崇敬を集めております。 |
昭和53年(1967年)1月24日、西日本婦人文化サークル句集刊行記念に句碑建立。 |
スースーとめぐみの味や林檎汁 |
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尚生きるよろこび胸に林檎汁 |
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寒に堪え老妻(ばば)が手摺の林檎汁 |
帯塚にあるべかりける落椿
『甲子園』 |
虚子翁の「わびの旅」には、 |
五月廿一日、汽車にて博多へ。 都府楼址の句碑を見る。 天の川の下に天智天皇と臣虚子と 虚子 これも一昨年私の行くのを待って除幕するはずであつたもの。観世音寺も近く、花鳥山佛心寺もすぐそこにある。 |
とあった。俳僧静雲和尚の創建に成るその佛心寺の横に虚子堂が造営され、床には富永朝堂氏作木彫一尺四寸の虚子翁寿像が安置されて居る。鎌倉の虚子翁邸に在るものと同木同寸の一体である。尚、虚子堂の後ろの椎の林の中にはホトトギスや玉藻誌上にそのいきさつを書かれた虚子翁の古帯を埋めて、「帯塚」が建てられた。 |
三月十日 空路板附著 鳥市にて昼食仏心寺の虚子 句碑除幕式に列す おきうとに白魚のせて出されたり 白魚をかく料理してみてなして 女来て生簀の白魚買うて行く 帯塚に対して咲けり藪椿 |
十一月四日、熊本より二日市を経て仏心寺へ 峠越え稻刈どきの野を走る 降るまゝに柿落葉して菩薩あり 秋もなほかく薔薇育て佳人住む 穴惑落葉の上を辷り落つ 藪中の落葉にまぎれ穴惑 |