明治42年(1909年)10月11日、河東碧梧桐は東尋坊を訪れている。 |
十月十一日。半晴、時々小雨。 午後芦原温泉に遊び、次で三国に出で、同所の名所東尋坊を尋ねた。鵜平、光風同行。 東尋坊は雄島村の手前で、海岸に突出した不思議な岩組である。不規則な玄武岩ともいうべく、大きな海鼠形の岩をある時は横にある時は縦にまた縦横無差別に積み重ねた奇趣端倪すべからざる岩である。岩の出端(ではな)の最尖端に立つと、足下の油のように凪いだ海の面と、凹凸常ない眉毛を圧する岩組とがそれぞれ相反撥した強い力で我等を引き付けるように据った。真向いの波に没せんとする夕日も、また峰づくる雲と相争うて、殊に燃ゆるが如き真紅の色をなすもののように見えた。 |
昭和6年(1931年)1月7日、与謝野晶子は東尋坊を訪れている。 |
いとかたく指すところをば守る波東尋坊に重なりて寄る
「深林の香」 |
昭和21年(1946年)10月12日、高浜虚子は東尋坊一見。 |
百丈の断崖を見ず野菊見る 野菊叢(むら)東尋坊に咲きなだれ 病む人に各々野菊折り持ちて 十月十二日 昨夜三国、愛居泊り。東尋坊一見。 |
昭和22年(1947年)、虚子は小説『虹』発表する。伊藤柏翠が登場人物として森田愛子と虚子との交流を描いている虚子の小説の代表的なものの一つとされているそうだ。 |
左端の句碑「愛子」こと森田愛子は、三国の豪商三田三朗右ヱ門と町の名妓との間に生まれました。 若くして胸をやみ昭和15年鎌倉で療養中、高浜虚子の門弟伊藤柏翠と知り合い俳句の道にはいったのです。 愛子は柏翆をともない、森田家に身を寄せたが、昭和22年31歳の若さでこの世を去りました。 虚子は愛弟子愛子をしのび、愛子は病床にある自分の心をよみ、柏翆も愛する亡き愛子をしのんでの一句が、ここに並べて建てられたのです。 |
昭和27年(1952年)9月28日、虚子は立子と山中温泉を訪れ、遠く芭蕉を想い、近く愛子を想う句を詠んでいる。29日、愛子七周忌法要。30日、東尋坊の俳句会。 |
九月三十日 三国紅屋を出で東尋坊の俳句会に臨む 蘆原の開花 亭に泊る 指ざせる杖のさき飛ぶ蜻蛉かな 挙げる杖の先きついと来る赤蜻蛉 |
九月二十九日。三国へ。東尋坊。 大時雨ゆかせて立てる百姓等 |
昭和29年(1954年)9月28日、水原秋桜子は東尋坊を訪れている。 |
東尋坊 海の霧つらぬく雨の巖を打つ
『玄魚』 |
昭和39年(1964年)5月8日、星野立子は伊藤柏翠居へ。東尋坊吟行。 |
タクシーをやとい三国へ 柏翠居へ 東尋坊吟行 野本永久さん も見える |
遊船の人に手を振り答へ見る 海女客を得んと炎天走りゆく 快く疲れて戻る宿涼し 涼風によき計画の又生れ |
雪国の深き庇や寝待月 | 愛子 |
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野菊むら東尋坊に咲き乱れ | 虚子 |
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日本海秋潮となる頃淋し | 柏翠 |
昭和40年(1965年)6月13日、星野立子は虚子・愛子・柏翠句碑の除幕式に訪れている。 |
六月十三日 ゆのくに号にて金津十時半着 三国 東尋坊 句碑 除幕式 明信寺 成田山分院隣の宿に入る 句会 早寝 |
梅雨の蝶今ひらひらと句碑除幕 梅雨寒の句碑の辺を海女ゆきゝする |
昭和41年(1966年)11月1日、高野素十は東尋坊を訪れている。 |
十一月一日 東尋坊一見 十人の海女の昼餉も秋の晴
『芹』 |
昭和46年(1971年)、山口誓子は東尋坊を訪れている。 |
東尋坊 盆の荒れ三方岩の壁の海
『不動』 |
また50m東南方に見える石碑は文学のふるさと、三国の森田別荘に昭和19年より4年間暮らし、三国の海を愛した詩人、三好達治の詠んだ「春の岬」であります。 |
春の岬 旅の |
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をはりの 鴎とり |
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うきつゝとほく |
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なりにけるかも |
詩人三好達治(1900−1964)は大戦中の昭和19年春より4年間をこの海辺の三国に移り住み、詩集『故郷の花』その他の名篇の多くをこの地で書いた。学友小林秀雄及び下名の選んだ「春の岬」は、その詩業の第一歩『測量船』の巻頭詩だが、漂泊の生涯をおくったこの詩人の全詩集序詩とも言ふべき佳品であるところから、作者の自筆にもとづいてこれを刻み、知友相集ひてこの地にこの文学碑を建て、永く記念することとした。 昭和43年4月5日
河上徹太郎 識 |