初代酒井小浜藩主の酒井忠勝は、天正15年(1587年)、酒井忠利の長男として三河国西尾(愛知県西尾市)で生まれました。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いに先立ち、徳川秀忠が信濃の真田昌幸・幸村父子を攻めた戦で初陣を果たしました。元和6年(1620年)2代将軍秀忠は、世継ぎとなる子徳川家光に忠勝を近侍させ、2年後には1万石を加増して大名にしました。寛永元年(1624年)に老中、1627年には武蔵国川越で10万石を得て、寛永11年(1634年)には11万3500石で小浜藩主として小浜に入部しました。同14年(1637年)大老に就任し、4代徳川家綱を補佐する幕府の重鎮として活躍しました。明暦2年(1656年)隠居し、万治3年(1660年)剃髪して空印と名乗りましたが、幕政にはなお大きな影響を持ちました。初代酒井小浜藩主として小浜の町づくりの基礎を築くと同時に、この小浜城を完成させました。
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慶安3年(1650年)、酒井忠勝は東照宮の五重塔を奉納。
小浜城跡

関ヶ原合戦の戦功によって若狭の領主となった京極高次が慶長6年(1601年)、北川、南川を天然の濠とし、小浜の海を背に難攻不落を誇る水城(みずき)として築城を始めた。別名を、雲浜城とも呼ばれる。寛永11年(1634年)京極忠高が出雲に移封となり、酒井忠勝が武州・川越(埼玉県川越市)より若狭11万3500石の藩主となり、天守閣の造立に着手、寛永19年(1641年)40余年の歳月をかけて小浜城は完成をみた。
以来、酒井家14代、237年間の居城となり、廃藩置県を迎える。
明治4年(1871年)12月、大阪鎮台分営設置の改修中に本丸櫓より出火、城櫓の大部分を消失して現在は本丸の石垣を残すのみとなった。
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石垣から見下ろす

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