此地は建武中興の忠臣新田義貞戰死の地である。義貞の戦いは延元三年(北朝暦応元年)即ち紀元一九九八年であるが、其後三百余年を経た明暦二年(二三一六年)一農夫が此地の田中より義貞佩用せるものと認められる兜を発掘した。よつて史実に基き、此地を義貞戰死の地と定め、萬治三年(二三二〇年)福井藩主松平光通が此地に碑を建てた。之が中央の堂宇内に現存する新田塚である。南北地は大正十三年一二月内務大臣より「燈明寺畷新田義貞戰歿傳説地」として史蹟の指定を受けている。 |
明治42年(1909年)10月15日、河東碧梧桐は「新田塚」を見に行った。 |
きのう同行した山雨氏と徒歩で三国街道に出で、藤島村にある新田塚を弔うた。塚のほとりには年古りた杉の木が二三本あるばかりで、近頃築きかえられた玉垣の木肌が白々としておるのも、却って物淋しさを添えるほどであった。塚の前に碑が一つある。里人が苧桶(からむしおけ)にしていた器があった。それは古い兜であった、その里人が深田の中から掘り得たというので、よく調べた結果、その兜は義貞の物であろうということから、始めてその死処を知ったという来歴を詳記した碑文が刻してある。燈明寺畷の義貞最後の奮戦を想うて、暫時塚の前の芝生に踞した。 |
昭和29年(1954年)9月28日、水原秋桜子は新田塚を過ぎる。 |
二十八日、新田塚をすぎて 道のべの塚降りかくす稲架(はざ)の雨
『玄魚』 |