座禅堂、開山堂、仏殿を始め、庫院の前に吊り下げられた、黒塗りにした丈余の擂粉木(すりこぎ)までを拝観して、最後に山門の楼上に昇った。楼の欄干に凭ってふと仰ぐと、庫院の裏庇の方に、繩からげにした芋胡茎が、ずらりと吊るし干しにしてある。胡茎の外に、蕎麦のような物も並べて掛けてあった。七堂伽藍の棟割りの整然とした、タタキの廻廊まで履物を許されぬ掃除の行届いた、この永平寺の境内に入ってから、頭もキチンと四角張るように思うていたが、その胡茎の繩からげを見ると同時に、今まで引締っていた箍(※「竹」+「輪」)が急にゆるんだような心持がした。かほど隅々にまで清浄の気が満ちておるようでも、やはりお寺はお寺じゃと思うて、山門を下りた。
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大正14年(1925年)9月1日、荻原井泉水は永平寺に泊まっている。
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松の木の影の深い山を越えると、夕日の色のうっすりとさしている麓の小さな部落に出た。そこが永平寺の門前だった。門前にも宿の看板をあげた小さな家があるけれども、私達は寺にとめて貰うこととして門を入った。大きな松の木に蜩がすずしく鳴いている境内には、数多い堂や衆寮が段々に高みをなし、又右に左に列って、それ等が悉く廻廊を以てつなげられていた。
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玲瓏の滝

昭和2年(1927年)8月1日、斎藤茂吉は東京を立って、永平寺のアララギ安居會に出席した。
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第四回安居會 自八月二日至八月六日於永平寺
あかつきに群れ鳴く蝉のこゑ聞けば山のみ寺に父ぞ戀(こほ)しき
『ともしび』 |
昭和2年(1927年)10月、小杉未醒は「奥の細道」を歩いて、永平寺を訪ねた。
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越前福井より輕鐵で永平寺に行く、お寺は立派なお寺、参詣の人々の爲に、玄關に俗の5、6人も机をひかへ、今普請で中々のにぎはひ、よく新聞で、管長争ひの騒ぎを見るほどの、富有熱閙寺、杉の木立の間に、唐風の建築、山門前の晝食に蕎麥をしたゝめ、又福井へ取つてかへす、
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傘松閣の天井画

昭和6年(1931年)1月7日、与謝野晶子は永平寺を訪れている。
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永平寺法のみやこの石橋をくぐれる水のうつくしきかな
山法師追ひ給はねど日の入りてひと時のちの永平寺出づ
「深林の香」 |
階段状の回廊

昭和8年(1933年)4月、吉井勇は北陸に遊び、永平寺に詣でた。
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昭和八年四月、われふたたび北陸にあそぶ。
多く蘆原の湯の里にありて、うつうつたる日
を送るうちに、ひと日機縁ありて曹洞第一の
道場吉祥山永平寺に詣でぬ。
いまもなほ吉祥山の奥ふかく道元禪師生きておはせる
おん受戒明日よりと云ふ山淨めわれはも塵のひとつなるべし
『人間経』 |
昭和11年(1936年)7月4日、 種田山頭火は永平寺を訪れ、参籠している。
昭和18年(1943年)11月16日、高浜虚子は星野立子と永平寺を訪れている。
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滝風は木々の落葉を近寄せず
廻廊を登るにつれて時雨冷え
木々紅葉せねばやまざる御法かな
今も尚承陽殿に紅葉見る
十一月十六日 越前永平寺。
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永平寺十一時著。吉田邸。志比谷村。翠雲堂にて句会。
滝の前過ぎて橋あり渡りゆく
道元禅師の承陽殿。
七堂や杉に紅葉にうづもれて
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通用門を出ると、高濱虚子・熊澤泰禅・伊藤柏翠の句碑があった。

殊にこの御法の梅の早きかな
| 熊澤泰禅
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今も尚承陽殿に紅葉見る
| 高濱虚子
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雪深く仏も耐えて在しけり
| 伊藤柏翠
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熊澤泰禅は永平寺第七十三世貫首。
福井の俳人伊藤柏翠を通じて高濱虚子と親交を結んだそうだ。
昭和55年(1980)11月、熊沢禅師十三回忌を記念して句碑建立。
昭和29年(1954年)9月27日、水原秋桜子は永平寺を訪れている。
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二十七日、永平寺にて
蕎麦咲けり雲水峡(かい)をいできたる
大野分すぎて法堂(はつとう)揺らぐなし
『玄魚』 |
昭和35年(1960年)5月、山口誓子は永平寺を訪れている。
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永平寺
禪の天藤房暗く懸りたり
萬緑に藥石板を打ち減らす
『青銅』 |
昭和36年(1961年)、高野素十は永平寺へ。
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夏行、永平寺 三句
門前のたうもろこしの小家かな
雨のふるたうもろこしの小家かな
婆のゐるたうもろこしの小家かな
『芹』 |
昭和47年(1972年)、山口誓子は永平寺を訪れている。
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永平寺
大雪を冠りて木々も低頭す
大雪が押す禪堂の雪圍ひ
禪堂の屋根落ちし雪砦なす
雪の七堂雪の棟雪の棟
『不動』 |
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