松山の八社八幡の四番社。祭神は、天宇受売命と八幡三神(品田和気尊、帯中日子尊、息長帯姫尊)である。 『伊予古蹟志』に「小栗の邑に国社あり、正八幡宮(雄郡神社)と曰ふ。用明天皇の元年9月5日、宇佐の神を移し祭る。社前に調馬場を置、古き流鏑馬射祭の地なり。」とある。 慶長5年(1600年)関が原の戦いのとき、河野家遺臣と毛利勢が攻め寄せてきて、加藤嘉明の家老佃十成(かずなり)が迎え討ったとき、兵火が当社にも及んで社殿社宝古文書を焼失した。 昔から鎮守の森と呼び、人々は神社の樹林を大切にしてきた。当社の樹林も、かつてのうっそうとした樹林とは比べるべくもないが、地域の人々に守られて、松山市指定の景観樹林保護地区となり、二代目の「左馬殿の松」も育っている。社宝には、『絵馬雄郡神社前景図』(万延)『左島雨乞いの図』(安政)がある。
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昭和47年3月1日、建立。 明治28年10月7日、今出(いまづ)の霽月を人力車で訪れる途中、雄郡神社で詠んだ句。 「御所柿」の句は、「病餘漫吟」(明治28年)に「御所柿にいそぐ祭の用意哉」とある。また有名な「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」の柿も御所柿で、子規の好物の一つであった。 |
昭和49年106日建碑。 雄郡神社は正岡家の氏神さま(うぶすな)でもあった。
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