松山市丸之内の松山城ロープーウェイ東雲口駅北側に加藤嘉明公銅像があった。 |
永禄6年(1563年)、三河国永良郷賀気村(愛知県)に生まれた。 天正3年(1575年)、羽柴秀吉に見出されて弟の羽柴秀勝の小姓となり加藤姓を名乗る。 天正11年(1583年)、秀吉と柴田勝家との戦いでは、名高い「賤ヶ岳七本槍」の一人として奮戦し3,000石の知行を与えられる。 その後、秀吉の旗本として多数の武功をあげ、文禄4年(1595年)伊予松前(正木)6万石に転封した。 秀吉の死後は徳川家康に仕え、関ヶ原の戦いの後、慶長6年(1601年)伊予半国20万石に加増される。 慶長7年(1602年)正月15日、松山城の築城を創める。翌年居城を松前から松山に移した。 文禄4年(1595年)から6年間の松前時代と慶長6年(1601年)から26年間の松山時代に、城主として城下町の整備や重信川・石手川の水利を整え良田を開発し、更に殖産に意を注いで領民の生計安定に努めた。 寛永4年(1627年)、陸奥会津40万石に加増転封となる。 寛永8年(1631年)9月12日、69歳の時、江戸桜田の会津藩邸にて死去した。 |