四国八十八か所の47番札所である。熊野山妙見院と号し、真言宗醍醐派の寺院である。 寺伝によると、600年代に修道院の開祖役行者小角が開山、大宝元年(701年)に文武天皇の勅願書として小千(越智)伊予守玉興が七堂伽藍を建てたという。 中世には、紀伊国(和歌山県)から熊野十二社権現が勧請され、熊野山八坂寺と呼ばれるようになった。七堂伽藍をはじめ12の宿坊、48の末寺を持つ大寺院で、修験道の根本道場として栄え、隆盛を極めたという。戦国時代に兵火のため堂宇が灰燼に帰し、後に再興して今の地に移ったと伝えられる。この寺は、修験道場のため、住職は代々八坂家の世襲であり、百数十代になるという。 本尊は、阿弥陀如来坐像(愛媛県指定有形文化財)で鎌倉時代の恵心僧都源信の作と伝えられる。
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本名寛紹。明治32年温泉郡重信町(現東温市)生まれ。元高野山真言宗総本山金剛峯寺第四百六世座主。平成6年、95歳で遷化。 昭和2年、日本文学夏期大学が高野山で開催されてとき、講師として招かれていたのが高浜虚子で、それが縁となり虚子に師事することになる。 この句は、白象の三男が亡くなり、遺骨を携え四国巡礼に出たとき、遍路の心にはそれぞれの思いと影があることを思い詠んだもの。
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