一 祭神 菅原道真公 一 由緒 菅原道真公は醍醐天皇の御代 昌泰4年(901年)正月25日にわかに大宰府へ左遷される。 同年2月1日十挺櫓(じゅっちょうろ)の屋形船にて配流の旅へつかれた。その途中予州の迫門(壬生川沖)において風波の難にあわれ御船あぶなき折り、広川修善(当神社宮司の先祖)と里人が一行を助け、今の志島の東端に漕寄せ岩上に御座所を設けたが、咄嗟の事にて敷物がなく、漁船の綱を丸く巻き円座の替わりとした。 (この古伝により「綱敷天神」という社名となる。) その時、菅公は濡れた烏帽子・冠・装束等を近くの岩上に干された。(後にこの岩を「衣干岩」と称す。)里人は折敷の上に鮮魚(小魚)をのせて献上し御安泰を御祝いした。 菅公は里人の厚意に感激され、自ら梶柄に荒々しく御尊像を刻んで姓名を告げ「後日私が帰洛したなら、これを証として都を尋ねなさい。もし筑紫にて没したと聞けば これを素波神(そばがみ)と称し祭りなさい。」と申された。 郡司越智息利により残された御尊像をこの地の南端に小社を建て、素波神として祭り尊崇した。 この御尊像を御神体としてお祀りしたのが当社の創始である。享保5年(1720年)6月28日、松山藩主松平隠岐守より現在の地に社殿を建立した。 戦前は県社に列格され、県内最大の天満神社として一年を通し、特に受験シーズンには菅公にあやかりたいと、多数の学生の参拝があり祈願絵馬も2000枚余り奉納される。 境内は3万3000坪あり昭和16年には国の名勝地に指定され、最近では日本の松原百景に選ばれた。人の手を加えない自然の松原は絶景である。 又その中に梅園(梅の木300本余)も整備されており、天神様の境内地にふさわしく花の咲く頃になると多くの参拝者・観光客でにぎわう。 |
天神様と牛にまつわる説話はいろいろありますが、一般的には菅公が大宰府で亡くなられた時、御遺骸を運ぶ牛車が途中で動かなくなってしまい、止む無く、その地に埋葬したのが安楽寺、すなわち大宰府天満宮のはじまりであることが知られています。 いつの頃からか、一つの願いに祈りをこめ、天神様のお陰を給わらんと、この座牛を触れさする信仰があります。 |
藤原氏が全盛をきわめ、平安文化が最盛に達したころ、右大臣菅原道真は天皇の信頼をうけながら、藤原氏の告げ口によって、遠い九州の大宰府に流されることとなった。都を出発して桜井の沖にさしかかった時、浜がにわかに荒れてやっと志島ヶ原にたどり着いた。里人たちは菅公の身に何事もなかったのをよろこび、船の舳網を巻いて敷物にしてお迎えしたので網敷天満神社の名がつけられたといわれている。 境内の広さは約11万平方メートル約3千本の黒松の巨木と白砂青松の景勝地である。海岸近くには管公ゆかりの衣干岩や筆塚・記念碑などがある。海岸側には幕末の黒船に備えた台場跡があり安政二年乙卯六月成の碑が残っている。また桜井名物として名高いエビ・カニの料理がある。近年梅林などが育てられ環境が整備されて夏の海水浴の客も多く、前に燧灘、後ろに世田山など史跡を控えて、四季折々の眺めはまた格別である。
志島ヶ原振興会 |