当園は宇和島城の西南部に接する旧浜御殿の一部である。 第七代宇和島藩主伊達宗紀(号春山)退隠の居所として文久2年潜淵館を建築し、翌年造園の工を起して3年の歳月を経て慶応2年(1866年)に築造されたものである。 園名は初代藩主伊達秀宗の父伊達政宗(仙台藩主)の酔余口号と題した漢詩 馬上少年過 馬上に少年過ぐ 世平白髪多 世は平かにして白髪多し 残躯天所赦 残躯は天の赦す所 不楽是如何 楽しまずして是如何んせん の一節による。 庭園の地割の主体は広い池で、岬、入江、曲浦など屈曲の多い汀線で囲まれ池心に一小島を配し池辺の護岸の重厚な石組には多くの和泉砂岩の海石を用い園の周囲は、マツ、クス、カシ等の常緑樹によって外部を遮蔽し園内には各種の暖温帯性樹木が多数植栽されている。特に家系並びに家紋に因んだフジとタケは種類がく独特の風致をつくり出している。 作庭の年代は比較的新しいが意匠技法に見るベきものがあり、この種回遊式庭園として優秀なものである。
伊達家 |
なかなかにむかしかたらぬ 栗の木のふかきこころは 君ぞしるらむ |
二荒芳徳
宇和島藩主伊達宗徳の九男に生まれ北白川宮能久親王の五女拡(ひろ)子と結婚し二荒家を継いで伯爵となった。この石碑には、二荒伯爵の幼い心にとどまる栗の樹が故郷をはなれてもなお母の思い出と共に心の中で育ちつづけたことが切々たる想いをもってここに刻まれています。裕仁皇太子の海外巡遊に随従、イギリスで見た青少年運動に心をひかれ、 ボーイスカウトを創設し、発展に尽くした。
昭和42年4月没(82才) 日本ボーイスカウト日本連盟総コミッショナー |
伊達家は藤原鎌足を祖と仰ぎ、藤を祖先の象徴としています。この白玉藤は、枝の上部に花が咲き、花が垂れさがらないことから「上り藤」という名で親しまれています。例年4月上旬に見事に咲き誇り、春の訪れを告げます。 |