子規は俳句・和歌の革新を行い、写生文を提唱して俳聖と仰がれている。2歳から明治16年17歳で上京するまで住んだ家がここにあった。 くれなゐの梅散るなへに故郷(ふるさと)に つくしつみにし春し思ほゆ 子規の最初の歌碑で、昭和26年50年祭のとき、子規の育った屋敷跡に建立した。明治35年3月10日午後4時過ぎ、門人の歌人伊藤左千夫が紅梅の下に土筆などを植えた盆栽を贈った。それを眺めて朝な夕なに作った歌11首を明治35年3月26日、新聞「日本」に発表した。この歌はその一首。「なへに」は「…につれて」の意。文字は『仰臥漫録』の自筆の拡大。
松山市教育委員会 |
昭和26年(1951年)9月16日、星野立子は子規の歌碑を見ている。 |
石手寺を出て明楽寺(玉川町二丁目)へ濱家の墓詣、 蓮福寺へ池内家の墓詣。途中、子規の歌碑のある中の川 の処に車をとめて、昔父の家と子規の家との隣り合せに 住んだ辺りを見て歩く。柳原極堂翁を見舞ひ、お築山に 父の御両親、兄上達のお墓へ参る。此処は私にも親しみ のある墓所で暫らくみなで佇んでゐた。 その夜、宿の二階で美しい十六夜の月を眺めた。 月此処に十六夜となり道後の温泉 月昇るしきりにきこゆ鉦叩 |
昭和35年(1960年)11月29日、山口誓子は「正岡子規邸址」を見に行った。 |
子規の住んでいた中の川の家の址も見に行った。いま湊町四丁目。子規の歌碑が立っている。中の川をうしろにして、川沿いの家はみなおでん屋だ。昔、あった子規の家は士族屋敷で、玄関を入った左に三畳の勉強部屋があった。南側の窓の下に、机が一脚、本箱が三つばかり並んでいて、本箱には子規の筆写した本が詰っていた。貧乏士族の子である子規は、字が巧くて筆まめだったので、本を筆写することを苦にしなかったのだ。 子規のこの屋敷の隣りで、虚子が生れた。子規の誕生した新玉町の家の址も見に行った。いま花園町一丁目、商店街で、そこからも北に松山城が見えた。
『句碑をたずねて』(四国・九州路) |
明治39年(1906年)、中村草田男は松前町から松山市に移る。中の川に臨む家であった。 昭和37年(1962年)11月、草田男は「中の川」のほとりに佇む。 |
松山市中の南端を流るる「中の川」のほとりに佇む。五歳の 頃に住みし家は戦災に失せて、敷地は道路と化せり。 流るる秋糸で曳く舟烏賊の甲
『大虚鳥』 |
昭和43年(1968年)、司馬遼太郎は子規旧邸跡のことを書いている。 |
子規の家は、子規がうまれた翌年に湊町四丁目四丁目一番地にかわっている。 市内ながら灌漑用の小川が流れている。川幅二メートルほどで、中ノ川といい、石手川のえだ川であり、水が飲めるほどうつくしい。 子規の正岡屋敷は南側の生垣をこの流れに映し、東側に土塀がつづき、表門がある。屋敷の広さは百八十坪ほどであった。 |
正岡家の住居は、子規生誕地からこの地に移り、正岡子規は、ここで2歳から上京する17歳まで過ごした。子規にとっては、良き師良き友に恵まれた少年時代であった。 |