足なへの病いゆとふ伊豫の湯に |
||||||||||||||
飛びても行かな鷺にあらませば |
子規の自選歌集『竹乃里歌』の明治31年「故郷を憶ふ」9首の中の1つ(内1首抹消)。明治28年秋以来カリエスのため左腰骨が痛みだし、以後没年までの8年間ほとんど病床の人となり、この望郷の歌を詠んだ。 昭和26年9月19日子規50年祭に初めて作られた歌碑2基のうちの一つ。当時子規自筆の歌稿が見つからず、句稿の中から一字ずつ集めて刻んだ。
松山市教育委員会
|
ふゆ枯や鏡にうつる雲の影 | 子規 |
||||||||
半鐘と並んで高き冬木哉 | 漱石 |
明治28年冬の句。子規句集『寒山落木』及び『病余漫吟』に見える。明治28年秋、愚陀佛庵で子規が森円月に書き与えたもの。子規「雲百句」の一つ。 |
明治29年1月3日午後、子規庵に内藤鳴雪、森鴎外、五百木飄亭、夏目漱石、高浜虚子、河東可全、河東碧梧桐と子規の8人が会しての初句会での句。 国際ロータリークラブ第267地区年次大会を記念して建立。
松山市教育委員会 |
昭和2年(1927年)10月、道後公会堂建設。 昭和6年(1931年)11月2日、与謝野寛・晶子夫妻は公会堂で講演。 |
明治28年(1895年)、夏目漱石は松山中学校英語科教師として赴任し 6月下旬松山市二番町上野義方邸内の二階建の離れに移った。この建物は戦災で焼失したが、その一階の部分が子規記念博物館常設展示室3階に復元された。 |
漱石寓居の一間を借りて 桔梗活けてしばらく假の書斎哉 |
昭和35年(1960年)11月29日、山口誓子は愚陀仏庵址を見に行った。 |
私は、愚陀仏庵址を見に行った。漱石が寄寓していた二番町の、旧上野家だ。焼けて再建され、天平という天婦羅屋になっている。 漱石がそう名づけた愚陀仏庵は上野家の離れで、漱石は下の座敷にいたが、子規が、日清戦争で身体を壊して帰り、この家に、舞い込んで来たから、下の座敷を子規に提供して、自分は二階に移った。 しかし再建されたものは、別のものだ。私は二階に上って、北に松山城を見た。そしてこれだけが昔からあるものだと思った。
『句碑をたずねて』(四国・九州路) |
昭和56年(1981年)4月2日、子規記念博物館開館。 昭和57年(1895年)、愚陀佛庵は松山市一番町の萬翠荘敷地内にも復元された。 平成22年(2010年)、災害のため倒壊、今はない。 令和3年(2021年)、子規記念博物館は40周年を迎えた。 |