足立重信は、松山城主加藤嘉明の重臣で、本人の遺言によって松山城を望むこの地に葬られた。高さ約224センチメートル、花崗岩製である。 重信は、美濃国に生まれ若年で嘉明に仕え、数多くの戦いで活躍した、文武両道を備えた武人である。嘉明がその功により、文禄4年(1595年)正木(松前)城主に任じられると重信も従って来住した。慶長3年(1598年)重信は命により伊予川(重信川)の改修を行い、洪水防止、5千町歩の耕地の開発に成功している。 関が原の戦功で20万石の大名となった嘉明の命で、重信は勝山築城と城下町建設の普請奉行となり、湯山川(石手川)の流路変更、松山城の築城、城下町の建設に20数年間尽力したが、完成を見ないで寛永2年(1625年)11月17日永眠した。
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名は素行(なりゆき)・別号南塘、文部省退職後常磐会監督。俳句は45歳のとき、舎生子規の指導を受け、日本派俳句の普及に貢献した。句は足立重信公三百年忌に当って治水の功績を讃えたものである。 |
名は半太郎、一高中退後郷里西垣生(にしはぶ)に帰って終生農村経済の振興に尽力した。子規、漱石の友人。句の寶川は石手川、伊豫川は重信川の古称で改修前のこれらの川をしのび詠んだ句である。ともに大正14年(1925年)建立。献灯碑脚句として異色のものである。
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