伊予鉄道高浜線港山駅下車。三津の渡しに向って歩くと、途中に「洗心庵跡」の碑があった。 |
洗心庵二句 老松にあやかり住むや老の冬 時雨るゝも晴るゝも庵の一つ松
『草雲雀』(「日記」より) |
寛政7年(1795年)1月15日、俳諧師小林一茶は33才のとき松山に来遊し栗田樗堂の二畳庵を訪い、又魚文かたにて素堂・芭蕉翁・其角の三福対を拝して 「正風の三尊見たり梅の宿」と詠む(勝山町に句碑あり) また16日桜道後温泉の辺りに遊び 「寝ころんで蝶泊まらせる外湯哉」と詠んでいる。 20日ばかり松山に滞在した一茶は、2月5日三津浜の方十亭を後にし、9日小深里(現在の港山町)の洗心庵に俳友を集めて句会を催し、 汲みて知るぬるみに昔なつかしや にな蟹と成て女嫌れな 山やく山火と成りて火の暮るゝ哉 梅の月一枚のこす雨戸哉(寛政7年西国紀行より) なお洗心庵は徳川中期より代々尼僧がすんでいた尼寺であったが、明治5年太政官布告の廃仏毀釈により廃寺となった。(このあたり洗心庵の跡地) |
寛政5年(1793年)芭蕉百回忌に、芭蕉筆蹟と称する懐紙を塚の下に埋め句碑を建立した。翌々年の寛政7年(1795年)2月9日小林一茶が句会を催したところは、小深里の洗心庵と判明した。 一茶は「汲みて知るぬるみに昔なつかしや」と“かめの水”にちなんだ句を「寛政紀行」に残した。 この地にあった不動の松呼ばれる老松と(枯死)は、当時すでに200年を超えていたと思われる。
松山市教育委員会 |
『諸国翁墳記』に「亀水塚 伊豫松山三津濱 某等 笠を敷て手をいれてしる亀の水」とある。 |