ここ松山には明治37年(1904年)〜明治38年(1905年)の日露戦争のとき、収容所で亡くなったロシア兵士の98人の墓がある。地元の老人会、婦人会、勝山中学校生徒会は永い間この墓地の供養と清掃を続け保存に努めてきた。 この尊い行為に感謝するためにロシアの作家V・グザーノフは、捕虜兵士の精神的支柱であったV・A・ボイスマン大佐の胸像を建立することを提案し、ロシア側でE及びN・ジーコフ、A・ジーロフ、V・キーリン及び彫刻家V・ムハチョーフの諸氏の協力により像が寄贈される運びとなった。 地元ではこれを「日露友好のかけ橋」として受け入れ、多くの方々の援助でここに建立するに至った。 1994年10月
V・A・ボイスマン大佐像建立委員会 |
この当時の日本政府は日本が未開国ではないことを世界に知ってもらいたいという外交上の理由もあって、戦時捕虜のとりあつかいについては国際法の優等生であった。ロシア捕虜をとびきり優しくとりあつかったというよりむしろ優遇した。 その収容所は各地にあったが、松山がもっとも有名であり、戦線にいるロシア兵にもよく知られていて、かれらは投降するということばをマツヤマというまでになり、 「マツヤマ、マツヤマ」 と連呼して日本軍陣地へ走ってきたりした。
司馬遼太郎著『坂の上の雲』(文藝春秋刊)単行本:5巻より |
日露戦争当時、政府は全国に29ヵ所のロシア兵捕虜収容所を設けたが、まず最初に松山の地に収容所を開設した。松山には多いときで4千人をこえる捕虜がいたが、傷病等の理由のほか、松山に来る途中の船内で亡くなった者も含めて98名が死亡し、埋葬された。当初、ここから歩いて1、2分の妙見山の山頂(現在は松山大学御幸キャンパス)に、旧陸軍によって墓地がつくられていたが、昭和35年(1960年)にこの地に移された。 |
波多野二美は俳誌「柿」を主宰した波多野晋平の妻である。 句の下五の「そのほとり」は、「そのほとりに永久に眠る98柱ロシア兵等がある」の意か。 この地ゆかりの、十六日桜が孝子に感じて花開いたという伝説をかけたのか。そこれを含めた句であろうか。
松山市教育委員会 |