元弘元年(1331)、宇都宮豊房が城を築く。 文禄4年(1595年)、藤堂高虎が居城とする。 安政6年(1859年)、苧綿櫓再建。 |
明治35年(1902年)、大洲藤樹会が発足。 |
昭和11年(1936年)4月28日、吉井勇は大洲を訪れ中江藤樹の銅像を見ている。 |
二十八日、上灘、長浜を過ぎて大洲着。源平の昔の河野氏の居城の址を見る。本丸に中江藤樹先生の銅像あり。俯瞰すれば大洲町、肱川など眼下にあり。 |
昭和27年(1952年)11月、中江藤樹の像再建。 昭和28年(1953年)、大洲城跡は県指定史跡となる。 昭和32年(1957年)6月18日、苧綿櫓は重要文化財に指定される。 昭和34年(1959年)7月31日、改築工事竣工。 |
藤樹先生賛 |
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内外瑩徹八面玲瓏 |
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千古聖徳萬衆知崇 |
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大洲藤樹會総裁 |
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舊大洲藩主正三位子爵加藤泰秋書 |
(1608〜1648)
先生の名は原、通称は与右衛門、生家は近江の小川村(滋賀県)屋敷内に大きな藤の木が生い茂り、その下で学問を積み、敬い集まる人々を導いたので、藤樹先生と呼ばれ、後の世の人々からは近江聖人と敬慕されてきた。大洲は、先生が10歳から27歳まで過ごされた立志・感恩・勉学の地である。大洲の人々は、先生ゆかりの地として、その学徳を追慕し、藤樹先生の心をいつまでも継承しようと、この城山に銅像を建立した。 ※教え−「孝」「致良知」「慎独」「知行合一」など ※著書−「翁問答」「鑑草」「春風」「捷径医筌」など
平成9年11月吉日記 大洲藤樹会 |
一忍七情皆中和(一たび忍べば七情皆中和す) 再忍五福皆駢臻(再び忍べば五福皆駢(なら)び臻(いた)る) 忍到百忍満腔春(忍んで百忍に到れば満腔の春) 煕々宇宙都真境(煕々(さき)たる宇宙都(すべ)て真境) |
肱川に童子泳げり昨日かも見たる芋錢の河童圖のごと 秋さむきかの城あとの石のうへ藤樹先生おはしけるかも
『旅 塵』 |
肱川の鵜飼は岐阜県長良川・大分県三隅川と並んで日本三大鵜飼に数えられるそうだ。 |
正岡子規没後の日本俳壇の中で、高浜虚子、河東碧梧桐と並ぶ俳人に松根東洋城がいる。 東洋城は本名を松根豊次郎といい、明治11年(1878年)2月25日、東京の築地に松根権六(宇和島藩城代家老松根図書の長男)を父に、敏子(宇和島藩主伊達宗城の次女)を母に長男として生まれた。 明治23年(1890年)10月父権六が、大洲区裁判所判事として、大洲に赴任するに伴って東洋城も大洲尋常高等小学校に転校して来た。当時、この屋敷が裁判官判事の宿舎で、明治31年(1898年)10月、権六が退官するまで、約8年間、松根家の人々はここに居住した。 東洋城は明治25年、大洲尋常小学校を卒業すると、松山の愛媛県尋常中学校(のちの松山中学校)に入学した。 4年生の時、夏目漱石が英語教師として赴任し、ふたりの運命的出会いが、その後の東洋城の生き方に大きな影響を及ぼすことになった。 俳人東洋城は俳誌『渋柿』を創刊(大正8年)、多くの同人を指導し、大洲にもしばしば訪れた。昭和8年(1933年)この「大洲旧居」にも立ち寄り「幼時を母を憶ふ」と次の句を詠んでいる。 |
また大洲の東洋城の句碑には、如法寺河原に |
がある。大洲史談会により平成5年(1993年)建立された。 東洋城は戦後、虚子と共に芸術院会員となり昭和39年(1964年)10月28日東京で87歳で死去した。墓は宇和島市金剛山大隆寺にある。 なお、ここの家屋(平屋建)は、明治2年(1869年)4月、大洲城二の丸金櫓跡に建てられたもので、江戸時代末期の武家屋敷の遺構が一部のこされている。
(2004年5月吉日 文責 澄田恭一) |