2018年愛 媛

興聖寺〜柳原極堂の句碑〜
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松山市末広町に興聖寺という寺がある。


興聖寺

 臨済宗妙心寺派の寺院で、瑞麟山と号し、本尊は釈迦如来である。

 寺伝によると、聖徳太子が道後に来浴されたとき創建されたという。その後、寛永4年(1627年)、第二代城主蒲生忠知が就封し、この寺を再興して菩提寺とした。忠知の没後、松平松山藩初代藩主定行が、蒲生家の霊牌等をこの地に祀ったという。江戸時代のはじめには、蒲生氏郷以来の信仰の対象であった青面金剛王(庚申)像が安置されていたといわれている。

 この寺は、「義士の寺」として知られている。義挙の後、赤穂浪士は、松平家など4家に預けられた。元禄16年(1703年)2月4日、松山藩の江戸三田中屋敷で、大石主税ら10名が切腹した。この6か月後、松山藩士宮原久太夫頼安は、檀那寺であったこの寺に木村岡右衛門、大高源五の遺髪を埋葬した供養塔を建て、菩提を弔った。頼安がこの両士を介錯したため、また、お預け中、特に親密であったためともいわれている。

松山市教育委員会

本堂の手前右手に柳原極堂の句碑があった。


   南山寿

こゝろざし富貴にあらず老の春

「南山寿」は、人の長寿を祝う言葉。

柳原極堂

 本名正之。昭和59年9月17日建立。自筆句碑。極堂は松山中学校入学で子規を知り以後俳誌「ほとゝぎす」創刊したり、「松山子規会」の結成を提唱したり子規顕彰に一生を捧げた。

 晩年、愛媛文化賞(愛媛新聞社)、愛媛教育文化賞(愛媛県)を受賞、また米寿祝賀会が道後公会堂であり、参会者300名と華やかな晩年となった。句はその年の作である。

松山市教育委員会

『俳句の里 松山』

道後公会堂は、現在の子規記念博物館のところにあったそうだ。

大高子葉の句碑


    子葉末期
梅てのむ茶屋も有へし
       死出の山

 赤穂浪士大高源吾は、子葉と号し室井其角に俳諧を学んだ。

 元禄15年12月14日主君の仇を報じて後、江戸の松山藩邸に預けられ、同16年2月4日同藩邸において切腹を命ぜられた。その死に臨んでこの句を残して潔く自刃、享年32歳。

 其角遺稿の俳諧選集『類柑子』(宝永4年刊)の文字により昭和40年建立。

松山市教育委員会

『俳句の里 松山』

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