松平松山藩初代藩主定行の隠居所として、寛文元年(1661年)につくられた。裏千家千宗安の設計のもとに、3か年をかけて完成した、広壮な園庭で、建物には東野御殿の別称があった。
記録によると、周囲一里あまりを竹垣で囲み、北門を入ると東西に馬場があり、馬場東詰の中門を入ると御殿があった。御殿の西には壮大な池泉があり、「風呂のお茶屋」「竹のお茶屋」「傘のお茶屋」「いろはのお茶屋」等の草庵や安心堂などの小堂が配されていた。
御殿は建築から20年後に、また、「竹のお茶屋」など僅かに残された建物も明治初年には取りはらわれた。
現在は、池の北に「竹のお茶屋」跡、東に観音堂が残されている。それに池の西南端から吟松庵(弟定正の隠居所)に通じていた。東海道五三次を模した宿駅は開墾で破壊されたが、周囲の竹林に昔の面影を僅かにしのぶことができる。
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高浜虚子の句碑があった。

ふるさとのこの松伐るな竹切るな
昭和33年(1958年)5月、東野御茶屋史蹟保存會建立。
高浜虚子が昭和26年9月21日、子規50年祭に帰省し、東野を訪れたときの句(「ホトトギス」昭和27年9月号に所載)。
虚子の祖父池内政明は壮年のころ、東野にあった藩候の別邸を管理していたので、とくになつかしんでの句。
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『俳句の里 松山』
秋の蚊や竹の御茶屋の跡はこゝ
ふるさとの此松伐るな竹伐るな
九月二十一日 東野を通る。
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昭和36年(1961年)5月7日、星野立子は高浜虚子の句碑を見にいく。
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ふるさとのこの松伐るな竹切るな 虚子
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の句碑を見る 竹のお茶屋址
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松蝉や淋しくなれば目をつむり
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昭和41年(1966年)6月7日、星野立子は再び再び東野を訪れる。 |
私が句を作るようになってからはじめてここへ連れてこられたのはもう三十余年の昔であった。八木花舟女さんが一緒に、大香炉の線香が風が吹く度にぼうぼうと燃えた様子が未だ目に焼きついている。父も花舟女さんももう亡い。時間の都合で東野へ急ぐ。 |
東野の蛙の声にかこまれし
蜘蛛の囲を払ひ払ひて先導す
遙々と思ひつゞけて来し夏野
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道後ふなや泊。昔の面影は殆どなく鉄筋建になっている。昔馴染の按摩さんが来てくれる。 |
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正岡子規の句碑もあった。

閑古鳥竹のお茶屋に人もなし
明治28年(1895年)、正岡子規が松山に帰省したときの句。
松山東野
閑古鳥竹のお茶屋の人もなし
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昭和33年(1958年)5月、東野御茶屋史蹟保存會建立。安倍能成揮毫。
昭和41年(1966年)6月7日、安倍能成は82歳で没。
昭和41年(1966年)6月8日、星野立子は安倍能成の訃報を旅先のニュースで聞く。 |