松山藩士中島家に生まれた信近は、11歳で小林信近銅像小林家に養子として迎えられ、藩主・松平勝成、続いて世継ぎの定昭の小姓役に取り立てられた。版籍奉還・廃藩置県が行われた後に県庁出仕を経て事業活動を開始し維新後に困窮した旧藩士の授産のための会社を設立し、製靴や織物などの事業を行ったほか、士族が政府から与えられた公債の保全のために第五十二国立銀行(現・伊予銀行)を設立(明治11年・1878年)、初代頭取に就任した。また、商法会議所(現・松山商工会)を設立(明治15年・1882年)、海南新聞(現・愛媛新聞の社長を務めた(明治16年・1883年)。明治中期に入ると、地方では初の民間鉄道として伊予鉄道会社(現・伊予鉄道)を開業(明治21年・1888年)させ、後に全国各地で作られる軽便鉄道の先駆けとなった。さらに、伊豫水力電気会社(現・四国電力)を開業(明治36年・1903年)、松山の産業発展に大きく貢献した。このように、経済発展に寄与する会社や地域に貢献する経済団体を設立したほか、愛媛県会初代議長、松山市会初代議長、国会議員を歴任し、政治活動を通して、松山の発展の礎を築いた。 |
平成26年(2018年)9月24日、小林信近没後100年。
平成28年(2016年)10月、松山商工会議所建立。喜多敏勝制作。 |
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