松山神社の手前「オステリア道後」の角に酒井黙禅旧居「田高庵」の碑があった。 |
側面には「昭和二十五年五月三十日 此日祝谷田高庵に第一夜をすごす。時に晩春の月中空に在り。明日は満月。」とあったようだ。 |
虚子が酒井黙禅の旧居田高庵に遊んだ記念として、虚子の郷里に関する名吟の中から右の句を石に刻んだ。句は明治37年3月、俳誌「ホトトギス」に発表されたもので、酒井家所蔵の半切をそのまま写した。 その後、中七の「啼く」は「鳴く」として全集等に登載されている。
松山市教育委員会 |
三月五日。酒井黙禅君松山赤十字病院長として赴任。送別句会。 向島喜多家。会者、みづほ、零余子、美代治、河骨、艸宇、楽堂、 閑山寺、草崖、兆太、清芳、瓢石等。 腐れ水椿落つれば窪むなり 東風の船博士をのせて高浜へ |
「ホトトギス」同人酒井黙禅が東大医学部卒業後、日赤松山病院長として赴任したのは大正9年3月のことで、38歳であった。その時、虚子は、「東風の船博士をのせて高浜へ」の句を贈って、黙禅の前途を祝福した。 この句碑の句は、虚子の右の句を受けたもので、伊予在住50年を記念しての句である。
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祭神は、徳川家康公で相殿に菅原道真公を祀る。元和4年(1618年)、松山城主加藤嘉明が湯月八幡宮の境内に小祠を建て、家康公の神霊を祭祀したが、明和8年(1765年)に松山藩主松平定静が祝谷の田高の丘(現社地)に社殿を造営し、東照宮と称え、城下の鬼門鎮護の神として崇敬した。 また、延喜元年(901年)、菅原道真が筑紫に左遷されていく途中、祝谷山崎の丘に立ち寄りて、温泉に浴したという故事により、里人が太宰府天満宮より旧跡の山崎の丘に神霊を勧請し、天満神社として尊崇していた。 その後、明治43年(1910年)、東照宮に天満宮を合祀し、松山神社と改称した。 現在の社殿は、元治2年(1865年)に造営されたものであり、典型的な権現造りの面影を、今もそのまま伝えている。
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